ふたりのキングが命を奪われた町、メンフィス

こんにちは 

今日はアメリカ中西部の中心都市シカゴからほぼ真南に位置し、ちょうど北部と南部の境目となるテネシー州の南西の端にある町メンフィスについて書いてみようと思います。この町は、本来アメリカには存在しないはずのキングが、ふたりも命を奪われた町なのです。

ひとり目のキングは公民権運動の闘士

アメリカに7年も住んでいたのに、残念ながらメンフィスには一度も行ったことがありません。でも、あまりにも思い入れが強すぎていったい何から書き始めるべきか、迷うほどいろんなことがあった町です。

とは言え、やはり順当に現代アメリカ史の中でも非常に重要な暗殺事件の現場だったことから始めるべきでしょう。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は1963年の公民権運動支持者たちによるワシントン大行進の先頭に立ち、リンカーン記念堂で、後々まで語り伝えられた「私には夢がある」という演説をおこないました。

この演説の力もあり、また大行進に参加した人たちの熱情も大いに貢献して、翌年の1964には公共の場所での人種差別を禁ずる公民権法が制定されたのです。

 


 

この演説から5年後の19684キング牧師は投宿中のロレーン・モーテルの自室にいたところを狙撃されて亡くなってしまいました。

キング牧師の闘いは決して公民権法制定という「勝利」で終わったわけではなく、その後もベトナム反戦闘争人種差別反対闘争、そして貧困に対する闘いとして続いていました。とくに政治的な平等性を獲得しただけでは変わるはずのない、白人と黒人とのあいだの経済格差を埋めるための「貧者の行進」を続けていたのです。

そのキング牧師にとって、同じ年の2月におこなわれたメンフィス市清掃員組合員たちのストを支援するデモが挑発によって暴動化してしまい、参加した黒人ひとりが射殺された事件は心の傷として残っていて、あえて同じメンフィス市で2回目のデモを計画していたさなかに起きた暗殺事件でした。

事件の現場となったモーテルはのちに全米公民権博物館になったのですが、とくに暗殺現場である306号室周辺はほとんど改築も改装もせず、当時のままに残されています。

あの演説以降、全米有数の著名人となり、下種の勘繰りをすれば講演料も随分上がっただろうに、宿泊していたモーテルの質素さにはびっくりします。

 


 

そして、館内には黒人が席について何十分も待っていても絶対に応接してくれない飲食店でおこなった、無言、非暴力、無抵抗の「シットイン」運動を実践した人たちの彫像を展示した部屋や、アフリカ大陸から連れてこられた長い航海の悲惨さを紹介する展示も常設されています。

こうした抵抗運動の象徴だったからこそ、キング牧師はメンフィス市で2回目の貧者の行進を実行しようとしていた矢先に、「黒人は社会の底辺にいるべき存在だ」と思っている人種差別主義者によって暗殺されたのでしょう。

 でも、なぜメンフィスで?

そして、キング牧師暗殺事件がメンフィスで起きたことにも、重要な社会的背景があります。奴隷制度の存廃も争点のひとつだった南北戦争が終わった1865、最後まで奴隷制存続にこだわっていた南部諸州でも奴隷解放が宣言されました。

そのとき、大部分が少なくとも親子23代にわたる奴隷として強制労働に従事させられていた黒人たちは、なんの補償も得られず、社会に出て生活費を稼ぐために必要な教育も受けずに、食べるものと寝る場所だけは保証されていた奴隷としての生活から放り出されたのです。

解放されたばかりの黒人たちにとって、生きるための選択肢はほぼ3に限定されていました。

今までは自分を所有していた奴隷主が自分の耕す土地を所有する地主に変わっただけの白人を、相変わらず「旦那様」と呼ばなければならない場所に残ったまま小作農をするか、農耕以外にはなんの技術も知識もない人間にも働き口があるらしい北部の「都会」というところに行ってみるか、奴隷としての集団労働の中で音頭をとるために歌ったり演奏したりしたワークソングやスピリチュアルズの芸を生かして、人通りの多い街角やちょっとしたお祭りなどの催しで辻音楽師として投げ銭をもらって暮らしていくか、この3つです。

そして、南北戦争が終わった1865年から20世紀初頭の1900年代まで、解放された黒人たちを取り巻く環境にはあまり大きな変化はありませんでした。

北部で運試しをしようとした黒人たち、辻音楽師として身を立てようとした黒人たち、つまり奴隷身分から解放されて初めて可能になった移動の自由を行使することを選んだ人たちにとって、メンフィスは特別な町でした。次の地図をご覧ください。

 


 

くすんだ緑灰色に塗られたところが、19世紀末年に当たる1900年の時点で黒人の人口密度がアメリカ中でいちばん高かった地域です。そしてやや明るい青緑に塗られた矢印のある地域が解放された黒人たちが北部に向かった経路です。

一目でお分かりかと思いますが、黒の四角で示された約20ヵ所の都市の中で、メンフィスだけ黒人人口の多い都市であったと同時に、北へ移住しようとする黒人が目的地とした都市でもあったのです。

まあもう少し正確に言うと、さらに南の深南部と呼ばれたジョージア、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ州で生まれ育った黒人にとってメンフィスは、最終目的地というよりもっと北の大都会を目指すために一時滞在する、前線基地のような場所だったかもしれません。

メンフィスにとどまっているあいだに、風の噂を頼りにほぼ真北にあるセントルイスやシカゴを目指すか、北東のシンシナチ経由でデトロイト、ピッツバーグ、フィラデルフィア、ニューヨークを目指すかを決めていたのではないかという気もします。

中には、メンフィス滞在中に働き口も見つかって、そのまま定住することにした黒人もいたでしょう。この最後のパターンが、じつはメンフィスで命を奪われたふたり目のキングエルヴィス・プレスリーの生い立ちと二重映しになってくるのです。

とにかく、南北戦争直後から、1920年代くらいまでのあいだ、メンフィスは入ってくる人たち、出て行く人たちが錯綜して、アメリカ中でいちばん黒人の出入りの多い町だったことはほぼ確実だと思います。

この黒人同士の出入りの多い町だったという事実は、とくに辻音楽師として生計を立てることを選んだ人たち大きな影響を及ぼしました。

ブルースやスピリチュアルズのような純然たる民間伝承音楽では、同じ原曲が地方ごとに微妙に違うかたちで歌い継がれて行きますが、それがまた混じり合って一層表現が豊かになるといった現象が発生するからです。

まさにそういう口伝えのリミックス現象がメンフィス市内のあちこちで起きていたことは、次の3枚組写真からも感じ取れるようにメンフィスを名乗るブルースミュージシャンたちが大勢いたという事実で分かります。

 


 

このふたりとひと組のブルースミュージシャンたち、そしてメンフィスという町がアメリカの偉大な民俗音楽ブルースの発展に果たした役割については、手前味噌なようで恐縮ですが、つい最近増刷版が刊行された拙訳の『The Story of the Blues』(土曜社)をお読みいただけたらと思います。

 ふたり目のキングは言わずと知れた……

ようやく、メンフィスの町で命を奪われたふたり目のキング、ポップス界の帝王、エルヴィス・プレスリーまでたどり着きました。生まれはメンフィスではありません。

大不況が1938年の2番底に向かってさらにきびしさを増していた1935、テネシー州の南西に隣接するミシシッピ州テューペロという小さな町で、エルヴィスは生まれました。おそらく父親が少しでもましな生活のできる職を求めてのことだったのでしょうが、メンフィスに両親と一緒に移住する13歳の年まで、エルヴィスはこの町で暮らしていました

結局エルヴィスにとって生涯で最愛の女性だった母親、グラディスが名前からしていかにもハンサムそうなヴァーノン・プレスリーに一目惚れして結婚したものの、大不況という時代背景もあったのでしょうが、夫はまったく生活力のない人で、周囲は黒人世帯ばかりの地域にぽつんと1軒だけの白人世帯として暮らしていたのだそうです。

そして、家中に水道の蛇口ひとつなかったというと極貧生活だったと思いがちで、実際に白人世帯として見れば最底辺の生活でしたが、当時の黒人居住区で家の中に水道が引かれていなかったのは、必ずしも貧しい人たちの住む家だけではありませんでした。

192030年代にかけて、とくに埋蔵量の多い油田が発見されたような土地では、石油成金が大勢誕生し、黒人でも相当豊かな人たちが豪邸街を形成することさえありました。

オクラホマ州タルサ市のグリーンウッド地区がその典型で、1921年には「白人よりぜいたくな暮らしをしているのはけしからん」と思った白人暴徒数百人に放火され300人以上の犠牲者を出すという痛ましい事件が起きました。

でも、外見は非常に立派なその豪邸街にも水道の配管は通っていなかったのです。住民が何度市当局に陳情してもまったく取り合ってもらえず、豪邸には住んでいるけど、近所の水くみ場に通わなければならない不自由な生活を続けていました。

陰湿な嫌がらせというより「黒人の分際で、家に蛇口をひねれば水の出る水道がほしいなどという身の程知らずな要求に応ずる必要などない」という態度だったのでしょう。ミシシッピ州はオクラホマ州以上に黒人差別の強烈な州ですから、黒人ばかりが住んでいる地域に水道が引かれていないのは当たり前のことだったろうと思います。

生まれてから13歳まで、近所の子供たちと遊ぼうとすれば黒人ばかりの環境で育ったエルヴィスは、黒人の生活感覚、身のこなし、リズム感、歌いながら動かす腰から骨盤にかけての関節の回し方や股の開き方、閉じ方まで自然に身につけていきます。

そういう背景を知った上で振り返っても、1954年にエルヴィスがまさに彗星のように出現したときのインパクトは強烈でした。

長期間ヒットチャートの上位を占め続けた楽曲の中から4曲選んだだけでも、ロックからバラードまで芸域の広さが分かると同時に、ほんとうにいい歌はデビュー直後から1957年ぐらいまでに集中しているなと改めて感じます。

 


 

右下のバラード2曲目にCant Help Falling in Loveを選んだのは、彼が1977年最後のステージのラストナンバーに選んだ曲だったことに敬意を表したという意味もあり、映画ではかわいそうなほど興行収入目当ての駄作ばかりに付き合わされたことを示す写真もついているからです。

じつはここにはAre You Lonesome Tonight?を入れたかったのですが、そうすると195657年リリースの歌ばかりになって、あまりにも偏るのを避けたという理由もあります。

のちにリズム・アンド・ブルースと呼ばれるようになった黒人音楽のジャンルをまねて白人のヴォーカルグループやバンドがやり始めた頃のロックンロールは、不自然な騒々しさばかり目立っていたのですが、エルヴィスのHound DogJailhouse Rockにはチャック・ベリーのサービス精神はあっても、不自然さはまったく感じません

付け焼き刃のものまねではなく、完全に自分の生活感覚にしみこんだ歌い方リズムの取り方で歌っていたからでしょう。たまにまねることがあっても「模倣は最高の賛辞」というところまで消化しています。

ボー・ディドリーというちょっとひねって前衛的な歌詞を書くリズム・アンド・ブルースのシンガーがいて「オレがちょっと気の利いたフレーズを思いついて、ステージでやってみるだろ? エルヴィスがまねたらもう、あいつのものになっちゃう。あれはもうどうしようもないね」と言っているくらいです。

 エルヴィスに「ドンファン」、「人種差別主義者」疑惑?

しかし「エルヴィスがファンの少女をステージに招きあげて抱きしめたり、キスをしたりするのは、次々に新しい女性を征服しようとする漁色家だからだ」とか、「黒人音楽をまねているくせに、じつは黒人を見下している差別主義者だ」といった批判もありました。

これはもう人気のありすぎるスターにはつきものの有名税とでも言うべき話でしょう。エルヴィスは若い頃映画で共演した女優に憧れていて、その女優の面影を持った少女、プリシラが結婚するのにふさわしい歳になるまで辛抱強く待っていた人間です。

次の2枚組写真の右側などは、あまりにも開けっぴろげで次の獲物を狙う征服者というより、ちょっと過剰なファンサービスと見るほうが自然でしょう。

 


 

ファンサービス以上の何かがあったとすれば、それは征服欲求ではなく、承認欲求だったのではないかと思います。

エルヴィスは、双子のひとりとして生まれましたが、不幸なことにもうひとりは死産でした。そして、最愛の母グラディスは「ひとりが生まれるときに亡くなってしまった双子で生き残った子は、ふたり分の強さを持って人生を生き抜く」という言い伝えを信じていました。

ライブのステージでスローバラードを歌うとき、エルヴィスは聴衆の中の女性たちの眼を真剣にのぞきこんで歌っていました

エルヴィスが女性たちの瞳の中に求めていたのは、典型的な男女間の愛情ではなく、彼が母親から託された重荷を立派に担っていると彼女たちが認めてくれることだったのではないでしょうか。

その意味でエルヴィスと聴衆とのあいだにあった神格化は、他のアイドルたちの場合のように、聴衆からアイドルへの一方通行の神格化ではなく、双方向の神格化だったという気がします。

しかし、差別主義者疑惑のほうはもうちょっと複雑です。当人がまったく差別主義者でなかったことは、明白です。

そもそも厳重な居住地差別がおおっぴらにおこなわれていた頃の深南部、ミシシッピ州の小都市の黒人居住地区で、まわりの黒人世帯と同じように不便な家に住み、同じように貧しい暮らしをしていた白人家庭の子供が黒人差別をしていたら、だれも遊んでくれる友達がいない惨めな生活になっていたでしょう。

のちに人気歌手となってからも、黒人アーティストばかりが出演するチャリティショーやガラにただひとりの白人として招かれることもあったし、そのとき尊大にも卑屈にもならずにごく自然にミュージシャン同士で屈託なく話し合う人だったからです。

ただ、夏にはまるで制服のように上下真っ白のサマースーツを着てエルヴィスの周りにたむろしていたメンフィス・マフィアと呼ばれた取り巻き連に、メンフィスという土地柄もあってかなり差別主義的な人間が多かったのも事実です。

とくに、最愛の母親を亡くして傷心がひどかったエルヴィスに「これからはオレがお母さん同様に君のめんどうを見てやる」と言って全幅の信頼を置かれるマネージャーになったトム・パーカー「大佐」は、エルヴィスがキング牧師の演説にインスパイアされたIf I Can Dreamを吹き込もうとしたとき、「これはエルヴィスが歌う歌じゃない」と言って止めようとした人間でした。

ふだんはめったにパーカー「大佐」に逆らわないエルヴィスが「吹き込んでみてダメだったらリリースしなくてもいいから、とにかく歌わせてくれ」と言ったことからも、エルヴィス自身が人種差別主義者ではなく、キング牧師の理想に共感を抱いていたことは明白です。

そしてエルヴィスの歌としては珍しくメッセージ性の高いこの歌は、左側の写真の若いイギリス女性が「おてんばとしていじめられ続けた自分がなんとか生きてこられたのも、この歌のおかげ」と言えるほどマイノリティを勇気づける曲になっていたのです。

ただ、自分があれほどの大スターになるとは思えなかった頃から仲間として仕事をしてきた人たちをむげに切ることはできないエルヴィスの人間的な弱さが、彼のアーティストとしてのスケールを制約したことは間違いありません。

まだ映画、ラジオ、レコード、テレビしか媒体がなく、ある国でやったライブ公演を別の国で見ることはほとんど不可能だった1970年代までにアーティストとしての活動だけでなく、人生自体も終えてしまったエルヴィスが生涯一度も海外で公演したことがなかったのは、ほぼ間違いなくパーカー「大佐」というマネージャーとの縁を切れなかったことに起因しています。

パーカーはおそらくオランダからの不法移民でした。そして「パスポート申請をすると身元がばれて強制送還されるかもしれない。さりとて自分はアメリカに残ってエルヴィスだけ海外公演に行かせたら、この極上のカネづるをだれかに取られてしまうかもしれない」と思って、絶対に海外公演を許さなかったのです。

エルヴィスの最盛期が1950年代後半で終わってしまい、それ以後徐々にパワーが落ちていったのも、まったく海外公演をする機会がなく、海外のアーティストとの付き合いもほとんどなかったことが関係しているでしょう。

さらに、過剰な処方薬漬けの晩年を送った一因も、メンフィス・マフィアたちによって外界からの刺激を遮断された生活を余儀なくされていたことだったのではないかと思います。

そんな残念な事情があったにもかかわらず、ヨーロッパでも日本でも、生前の姿は愚作揃いの映画や下半身は写さないという約束で撮ったテレビ出演時のクリップぐらいしか知らない若い人たちの中から、今でも熱狂的なファンが育ちつづけているのは、奇跡のような気がします。

 聖像画に描かれるポップスシンガー

奇跡と言えば、エルヴィスの独自性はカトリック信者のあいだではイタリアのルネサンス以降あまり重視されなくなり、プロテスタントはもとから拒絶していた聖像画の伝統を復活するほど宗教的な色彩を帯びたスターだったことではないでしょうか。

デビューしたての頃のエルヴィスはほとんどありとあらゆる宗派のキリスト教聖職者から「踊り方が卑猥だ」「セクシーすぎて神を冒涜している」と批判を浴びましたが、言葉少なに「自分は自分なりに善きクリスチャンだと信じている」と語るだけで、あまり信心深さをひけらかすような態度は取りませんでした。

これは宗教を信じない自由が確立されている日本ではそれほど勇敢な態度とは思えませんが、いまだに「クリスチャン以外の人間は、捕まりさえしなければ何をしてもいいと思っている悪魔の手先だ」と思う人の多いアメリカでは、相当大胆なスタンスです。

それなのにと言うべきか、だからこそと言うべきか、エルヴィスを描こうとすると、ポップアート系の画家たちはほとんど例外なく、聖像画の主人公として描きます。

 


 

左の「黒いベルベットのピエタ」は、おそらく今もエルヴィスの墓所に飾ってあるエルヴィスと母の肖像写真(右上)から想を得た絵でしょうが、軽くルネサンス期を跳び越えて古式ゆかしい中世聖像画の世界に入っています。

右下の絵は一見ごくふつうの写実的な肖像画に見えます。でもこの絵を描いたアキヴァ・ブリーダーという画家は、独自の様式美の世界を持っていて、主としてポピュラーシンガーの肖像を描くときに、必ずキャンバスの中に太枠の額縁を描くところから始めて、その枠から飛び出したように顔を描いていきます。

入念にコマ割を計算したYouTube映像で自分の制作風景を放映していますが、非常に印象的な事実があります。エルヴィスを描くときと他のポップス界の大物スターたちを描くときでは、顔を描き出すときの手順がまったく違うことです。

ジョン・レノンやフレディ・マーキュリーやエルトン・ジョンやデイヴィッド・ボウイを描くときには、薄く細い鉛筆書きの輪郭に沿って描くのですが、エルヴィスの時だけはまるで絵筆を持った手が勝手に動いていくかのように、まったく下書きなしで描いているのです。

結果として描き終わった作品からもエルヴィスの時だけ、単なる写生ではない憑依現象のようなものがにじみ出ています。

そしてこの一種の憑依現象は、エルヴィスに対する信仰心を持ち合わせていないことが分かる画家からも感じます。

アンディ・ウォーホルは、「一流のアーティストは一流の知識人と真剣な議論ができるほど教養を磨かなければならない。そのためにはニューヨークのど真ん中に住んでいなければダメだ」と思っていた教養主義者でした。

当然、いつまでもメンフィスでくすぶっていたエルヴィスを田舎者とさげすんでいたフシがウォーホルには見受けられます。

そして彼の描いたエルヴィスは、教養や議論より暴力や抜き打ち拳銃の速さを「信仰している」はずの暴力至上主義者、エルヴィスです。

 


 

ただ、このDouble Elvis、これはこれなりに暴力信仰者のための聖像画に成りおおせているのではないでしょうか。

私はこれから1から2年、202627年のアメリカは、独立戦争でも、南北戦争でも、1930年代大不況でも経験したことのない大激動に呑みこまれると見ています。

その大激動に、成人の54%が小学校6年生程度の読解力さえ持ち合わせていないアメリカ国民は、いったいどう立ち向かうのでしょうか。エルヴィスの、プロの画家を聖像画の画工にし、人を祈りに向かわせるような不思議な力が重要な役割を果たすのではないかと想像しています。

今度は王ではなくメンフィス市民の生活が脅かされている

今年の9月、トランプ政権は治安の悪化を理由に、テネシー州の州兵をはじめとしてFBI、アルコール・火器取締局、麻薬取締局の職員などをメンフィス市に派遣して凶悪犯罪の未然防止に当たらせると発表しました。

 


 

しかし、この公式発表はかなりうさん臭いものでした。メンフィスは殺人事件犠牲者数でワースト10に入っていますが、とくに暴力犯罪の増加が顕著な都市ではありません

 


 

州兵まで動員する根拠は「州を隔てた西隣の町アーカンソー州ウエストメンフィス市の殺人事件発生率がアメリカの中都市の中ではとくに高いから」という薄弱なものでした。

そこには、所属するテネシー州の知事が共和党で州兵の派遣要請に応じやすく、市長は民主党なので市民もろとも脅してやれば、次の市長選で共和党候補を当選させやすいといった党利党略が透けて見えます。

第二次トランプ政権下ではメンフィスの前に2件、治安維持を名目とした大都市への州兵派遣がありました。

ですが、1件はどの州にも属さない大統領直属領なので他州から州兵を派遣しやすい首都ワシントン、もう1件はメンフィスと同じように州知事は共和党系、市長は民主党系のニューオリンズでした。

そして次のニュース報道写真のタイトルになっている、パム・ボンディ司法長官による華々しい「戦果報告」については、救出した子供80という数字がアメリカの大都市でいかに多くの児童が誘拐の危険にさらされているかを示すと同時に、逮捕者1700というのはかなり無理を承知の一斉検測で膨らませた数字ではないかとの疑問も感じます。

 


 

ちなみに、左上隅のケバケバしいネオンサインや、歩いている女性たちの派手な色使いで露出度の高い衣装でもお分かりいただけるように、巡回現場のビール・ストリートは昔からよく知られたメンフィス随一の歓楽街です。

この通りの情景を歌ったBeale Street Bluesには、私の好きなふたつの特徴があります。ひとつ目は、とてもウィットに富んだ次のような歌詞がついていることです。

「もしもビール・ストリートがしゃべれたら、しゃべれたら、

町中の女房持ちはベッドを担いで逃げ出さなきゃならないだろう。

酒なんか一滴も呑まない、一滴も呑まないって言う、

野暮な男たち、たった23人は別だけどね。

そして、角の盲目の辻音楽師はビール・ストリート・ブルースを歌う。」

ふたつ目は、この曲の構成です。

作曲者は「ブルース」というタイトルのついた曲の中でおそらく世界一有名なSt Louis Bluesも作曲したWC・ハンディですが、St Louis Bluesのほうは無難なA-A’-B-Aというポピュラーソング形式を取っていたのに、こちらではちょっと冒険をしてA-A-Bというシンプルな正統派ブルース形式で書いているのです。

ルイ・アームストロングエラ・フィッツジェラルドのカバー版が、ユーチューブで手軽に無料試聴できますので、ぜひお聴きになってみてください。

テネシー州兵などを動員したメンフィス市街巡回警備については、次の2枚組写真右側の方からは賛同の声も上がっています。

 


 

「最近5年ぐらいは暴力犯罪に巻き込まれるのが怖くて、昼でも通りを歩けなかった。やっと自由に道を歩けるようになって、トランプに感謝している」との発言なのですが、Xへの投稿やユーチューブ映像を必死に探しても、そうした声を発信している市民はここに登場する黒人女性ひとりだけだったのです。

保守派が「自分たちの政策をみんなが喜んでいる」と主張したいとき必ず引っ張り出すのがいかにもインテリらしくて民主党支持派に見える黒人女性なのですが、ちょっと太すぎる黒縁のメガネといい、これはあまりにもやらせっぽい映像ではないでしょうか。

そして、左側の市内中心部を巡回する州兵たちの背中には、黒地に白抜きではっきり「軍事警察」と書かれていることにもご注目ください。

第一次201721年)政権のときにはかなり自制したスタンスを取っていたトランプは、第二次政権ではうって変わって、自国の大都市圏住民を占領下の敵国民でもあるかのように扱って自分の方針を押し通そうとしているのです。

 

メンフィス市民を襲う公共料金大幅値上げの危機

共和党の民主党に対する党利党略から発した州兵たちの市内巡回には、あまり大きな実質的被害はないかもしれません。ですが、昨今米国株式市場で大賑わいの巨大データセンター建設ブームは、確実にメンフィス市民の公共料金負担を激増させます。

現在巨大データセンターが乱立している理由は明白です。人間のほうが、プログラム言語という単純で一義的で明快な言葉を習得してコンピューターに指示を出せば、正確に指示どおりの作業をしてくれます。

それなのに、プログラム言語を学ばず複雑で多義的で曖昧な自然言語で出した指示をコンピューターに正確に解釈させ、コンピューター自身がその指示をプログラム言語に翻訳して指示どおりの答えを出させようとするのが、そもそも間違っているのです。

コンピューターがものすごい量の演算をおこなって、いちばんもっともらしい解釈にたどり着くまでに膨大な量の電力と冷却水を必要とするからです。

それでも、冷房・換気・冷却水だけでは追いつかずに、広大な敷地の一角に1階当たりの面積を広く取った低層の建物を建てて、なるべく効率よく自然放熱も利用しないと間に合わないほど、コンピューターから大量の発熱があるのです。

膨大な電力量が必要なことは以前から分かっていましたが、最近では冷却水需要も凄まじいことが分かってきました。次のグラフが示すとおりです。

 


 

ご覧のとおり、2018年頃まで自社の社屋内でデータ処理をする企業のほうがむしろ多いほどでした。

それなのに、その後、とくにチャットGPTが一般公開された2022年末からは、コンピューター、周辺機器、配線まで全部データセンター側が用意する超巨大型がどんどんシェアを伸ばしています。

当然、巨大データセンターに自分たちが日常使っていた電力や水道水のかなりの部分を食われてしまう都市では、供給量の大幅拡大のための巨額初期投資も必要になり、それには電力料金・水道料金の大幅値上げもやむなしということになるでしょう。

イーロン・マスク率いる生成AI企業、xAIが第1期工事を終えたばかりの、世界最大規模を標榜するスーパーコンピューターを実装したデータセンター、コロッサス建設プロジェクトを市内に抱えるメンフィスも、この公共料金大幅値上げの矢面(やおもて)に立たされるでしょう。

 


 

手書きの赤い楕円で囲ったところ冷却水タワーを並べた場所なのですが、コンピューターが演算をしているあいだ中、ここに冷却水を流しこみ続け、温まってしまった冷却水は排出していく必要があります。

長年にわたって堅実に営業利益を出し続け、ほとんど水道料金を上げずに経営してきたメンフィス市水道当局の収支も、コロッサス1期工事が竣工した2024年から早々と影響を受け水道事業営業損益が損失に転じてしまいました。

 


 

そして来年、第1期施設がフル稼働する2026頃には赤字幅が急拡大すると予想されています。

メンフィス市だけではなく、全米の巨大データセンター建設地周辺で同じような問題が生じているので、腰の重い連邦政府の上院議員たちも「データセンターが電力需給に及ぼす影響に関する調査」を提唱しはじめました。

 


 

ただ、何分にもほとんど全員がロビイングの名のもとにどこかの企業、産業・職能団体、外国政府からたっぷり賄賂を受け取っている人たちですから、「因果関係は明白ではない」とお茶を濁すか、因果関係を認めたにしても罪状に比べて軽すぎる罰で済まそうとするでしょう。

そのとき、とにかく論理的、抽象的思考能力の鍛錬を怠ってきた成人が多すぎるアメリカ国民が大企業の横暴を追及し続けるには、公民権運動の頃のキング牧師のような象徴的存在が引っ張っていく必要があると思います。

突飛なようですが、その牽引役を果たすのは、ほぼ半世紀前に世を去ったエルヴィス・プレスリーの霊魂ではないかと思います。

2027年、エルヴィスの孤独な死の真相が明らかにされる

50年近く前に亡くなったエルヴィスの霊が、突然どこかの霊媒の口を借りて「データセンター建設による電力料金、水道料金の値上げを阻止せよ」とのお告げを語るだろうといった、荒唐無稽な話がしたいわけではありません。

エルヴィスの晩年は薬漬けでほとんど人前に出てくることもないわびしいものでした。そして、ひとりの人間にこれほど大量の薬を飲ませたら、当然死んでしまうだろうというほど大量の薬を処方されていた結果としてなんとも淋しい死を迎えたようです。

なぜか天井がガラス張りで3面のスクリーンが6面に見えるテレビ室で、彼は一体何を考え、何を想っていたのでしょうか。

 


 

エルヴィスの生前には、アメリカのテレビ局はほぼ完全に3大放送網系列下に置かれ親局の配給する画面にローカル制作のニュースを織りこむだけという状態でした。彼は音を消して3大放送網が発信している画面だけを流し続けて、興が乗ったときに歌ったり楽器を演奏したりする際の動く背景としてテレビ画面を使っていたそうです。

この退屈すぎる日常から逃避する手段として、エルヴィスが多すぎる量の処方薬を飲んでいたことはほぼ確実です。しかし、エルヴィスの家庭環境、そして財政事情は単純に処方薬の量が多すぎただけではなかったかもしれないことを示唆しています。

じつはメンフィス・マフィアと呼ばれた取り巻きの白人たちに食いものにされていたプレスリー家家計は窮迫し、のちに博物館となった豪邸も唯一の稼ぎ手であるエルヴィスが亡くなったら借金の担保として金融機関に取り上げられるはずだったのです。

ところが、当時まだ存命だったエルヴィスの父親検死報告を50年封印するという条件さえ呑めば、この豪邸を維持して住み続けるだけではなく、博物館としての入場料や土産物売り場の収入で暮らしていけるようにしてやろうという「親切」な金融機関が登場して、そのとおりの決着となったわけです。

再来年、2027はエルヴィスが亡くなった1977年から50年目にあたるので、この封印が解けます

検死報告にはエルヴィスの死因は単なる医療過誤ではなく、意図的に彼を薬漬けにして莫大な治療費をせしめていた医師団薬剤師団、そして製薬会社などの未必の故意による殺人だった証拠が残されているのだろうと思います。

没後半世紀にわたって聖像画の画題になり続けるほどしっかりした実在感を持ち続けているエルヴィスの死の真相がはっきりしたとき、抽象的、論理的説明にはまったくなびかなかったエルヴィスファンの大衆が、巨大資本権威ある職能団体、そして地方議会から連邦議会に至るまでの議員たちこそ自分たちの敵であることを一挙に悟る可能性があります。

私が、今度のアメリカ社会動乱を牽引する、公民権闘争時代のキング牧師のような象徴的存在になるのはエルヴィスの霊だろうと言うのは、そういう意味です。

来年から再来年にかけて、アメリカ社会に一波乱どころか、波乱の大波が何度も押し寄せてくるのではないでしょうか。

 

 

【お知らせ】来年早々、118日に講演会をおこないます。

これまでその時々の個別の問題に対応して考えてきたことを、初めて統一的な視点でまとめてお話しすることができるのではないかと、自分でも大変楽しみにしている講演です。

 


 

なぜアメリカ政府イスラエルによるパレスチナ人ジェノサイドを全面支援するのか?

 

なぜ、地球温暖化EV生成AIといった明らかに経済合理性に反し環境を破壊する行為が、世界各国の政府国連の支持を受け続けるのか?

 

第二次大戦直後の1946年に贈収賄が合法化されたアメリカで、延々と続いてきた腐敗堕落した構造を根底からひっくり返すチャンスを創り出し、しかもこのチャンスを最大限に生かせるのは、日本国民なのです!


お問い合わせ、お尋ねはhttps://peatix.com/event/4712501まで、お願いします。

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