書評 朝井まかて著『白光』
こんにちは
物怖じしない性格と芯の強さがにじみ出た写真と、その写真の被写体がイエス・キリストや右側の天使の表情にそこはかとなく東アジア的な優しさを感じさせつつも、伝統的な様式にのっとった聖像画を描いていた事実との対照の妙が伝わってくる気がします。
日本の凄いところは、こういう風光明媚な場所が世界に名を知られるどころか、全国区の名所とさえなっていなくて、行ったったことのある人だけが「あそこはいいよね」と言い合う程度にとどまることではないでしょうか。
完璧な東北訛りの日本語を話すニコライの引き立てもあって、順調に聖像画工房の立ち上げにも参加しながら、絵の勉強にも励んでいたりんに聖像画工房の画工になるための修行へのご褒美として、ロシアに留学してさらに西洋画の研鑽に励むチャンスがやって来ました。
聖ニコライと先駆者イオアン(カトリックやプロテスタントにとっての洗礼者ヨハネ)は型どおりのシンボリズムそのものですが、背景や足元には現在にいたるまで名前が伝わっているこの画家の個性を発揮した筆致がはっきり出ています。
今日はずいぶん久しぶりに書評を書いてみようと思います。
高校時代の同学年の畏友と昼飯を食べながら、何がきっかけだったのかロシア正教の聖像画について、稚拙とさえ言えるほど型にはまった様式美の世界を描き続けた聖像画の画家たちの情熱は一体どこからきていたのだろうかと訊くともなしに、口に出したのです。
その友人が「まさに、その疑問に答えるような歴史小説をたまたまつい最近読んだから、今度会うときに貸してあげるよ」ということになりました。
大体においてこういう話は、次に会ったときには訊いたほうも答えたほうも忘れていることが多いものです。ところが、彼はちゃんとその本を持ってきてくれたのです。喜んで借り受けはしたものの、家に帰って改めてページをめくるとなんと約500ページという大著でした。
もう数十年間、暇がなくて長編小説など読んでいなかった私としては「結局、読み通せなかったよ」と言って、せっかくの好意を無にすることになりそうな不安を抱きながら読み始めたのが、今回ご紹介する朝井まかてさんの『白光』(文藝春秋社、単行本初版2021年、文庫版初版2024年)でした。(リンクは文庫版に張りました。)
なお、いわゆるネタバレしてしまった本は読む気がしないとおっしゃる方は、この先はお読みにならず、騙されたつもりでまずこの本をお読みになってください。
人生の岐路に立って大きな選択に迫られたとき、人を殺すとか、盗むとか、大事なものを詐し取るとか以外であれば、間違った選択というものはない、自分の選択を正しいものにするのも、間違ったものにしてしまうのも、その後の生き方次第だと思えてくる本です。
この本の主人公は幕末から明治維新、そして日清・日露戦争から第一次世界大戦へ、さらには第二次世界大戦勃発直前まで生きた、現在の茨城県笠間市出身の山下りんという女性です。
幼い頃から絵を描くのが好きで、おそらく終生イタリアルネサンス期の「文芸復興」によって解放された画家たちの個性や天分がほとばしるような絵画への憧れを抱き続けながら、黙々と修道院の聖像画工房にこもって、聖像画を描き続けた人です。
まず、りん26歳のときの肖像写真と、34、35歳くらいのときに描いた聖像画をご覧いただきましょう。
物怖じしない性格と芯の強さがにじみ出た写真と、その写真の被写体がイエス・キリストや右側の天使の表情にそこはかとなく東アジア的な優しさを感じさせつつも、伝統的な様式にのっとった聖像画を描いていた事実との対照の妙が伝わってくる気がします。
笠間も北関東「江戸っ子」地帯
読み始めてすぐ気づいたのが、山下りんの故郷である茨城県笠間市の風景や地元の人々のことば遣いなどになんとなく親しみを感じることでした。
私は父親が栃木県足利市の没落した機織り問屋の三男坊でしたから、なんとなく足利や同じように近隣に養蚕農家の多い土地である群馬県桐生市や茨城県結城市には、大商圏江戸との頻繁な交流から生まれた江戸っ子気質のようなものがあると感じていました。
足利も桐生も結城も、気っぷが良くて諦めが早い、でも意地を張り始めたらテコでも動かない、そういう人たちの多い土地柄だったのです。
そして、山下りんが生まれた笠間のことを今回調べてみて、笠間も結城紬を紡ぐための絹糸の一大産地だった地域で、蚕影山(こかげさん)神社という蚕を祀った神社もあることを知りました。
けっして北関東ならどこにでもあるような一寒村ではなかったことは、つつじ山の山頂にあるつつじ公園から市街を一望した遠景写真でも、ご確認いただけるでしょう。
日本の凄いところは、こういう風光明媚な場所が世界に名を知られるどころか、全国区の名所とさえなっていなくて、行ったったことのある人だけが「あそこはいいよね」と言い合う程度にとどまることではないでしょうか。
私も、『白光』を読み、自分なりに背景を調べているうちに、ぜひここには行ってみたいと思うようになりました。
さてその笠間で生まれ育った山下りんがご一新(明治維新)でガラッと変った世の中で、女だてらに「絵筆一本で身を立てるために江戸に修行に行きたい」と言い出したときの、りんと兄の重房とのきょうだい喧嘩の場面などを読むと、まさにちゃきちゃきの江戸っ子同士の意地の張り合いという雰囲気です。
御三家の一角水戸藩に比べればはるかに小さな笠間藩とは言え、山下家は下級武士の家柄なので重房は参勤交代でお殿様に随行して江戸の空気を吸った人ではありません。
ですが、固定観念ばかりの堅物のように見えて、土壇場になると「しゃぁあんめい」の一言であっさり方向転換する重房も、妹であるりん同様に一本気でありながら、その一本気を向ける対象がときどきころっと変る、いかにも江戸っ子的な人物なのです。
なんとか兄の許しを得て、絵の修行のために江戸改め東京に向かったりんは無事東京に着いて早々、一本気ゆえの目まぐるしい方向転換を演じます。
「見切りのおりん」は伊達じゃない
何もかも変った明治の御代とは言え、若い女性が男性である絵の師匠の家に住み込みで弟子入りしたいとなれば、相当ハードルの高い難事業になるのは現代人である我々にも想像がつきます。
ところが、りんは拝み倒すようにして弟子入りした師匠の家から何度も短期間でお暇をいただいてしまうのです。「あの師匠は絵が下手すぎる」とか、「この師匠は女性関係が乱脈すぎる」とかの理由で。
こうして、師匠から師匠へと転々とし、そろそろ東京中の絵の師匠たちのあいだで「あんな厄介者に押しかけてこられたらどうしよう」と評判になった頃に、やっとりんは自分から見切りをつけることのなかった最初の師匠に出会います。
中国の文人画を源流とし、日本の気候風土や絵師の内面から発する表現によって独自性を確立し、江戸中期以降人気になった南画の比較的若手の絵師、中丸精十郞です。
彼が西洋画の研究をしていた影響もあり、また開設されたばかりの工部美術学校の入学試験に受験資格年齢の上限を超えていたにもかかわらず受かったことにも勇気づけられて、りんも師匠の後を追って工部美術学校の入試に挑戦し受かったのです。
そして明治政府初期のお雇い外国人の中でも有数の高い報酬を約束されて来日し、同校の画学教授となった画家、フォンタネージのもとで画学とデッサンの基礎などを学ぶことになります。
しかし、明治政府がフォンタネージに約束していた俸給を払い続けることができなかったので日本を去ったフォンタネージの代わりにやや安い俸給でやって来たイタリア人画家は、絵は下手、授業の準備はしない、そのくせ通訳には横暴というとんでもない安物買いの銭失いでした。
工部美術学校の月謝にも困るようになっていたりんは、同級の中でいちばんの仲良しだった山室政子に「ロシア正教に入信して、修道院に入って聖像画工房で仕事をすれば衣食住が保証され、おまけに絵がうまければ西洋画の本場ヨーロッパに留学させて貰えるかもしれない」と誘われます。
このとき、りんがロシア正教に入信した最大の動機は、絵の勉強に専念できる環境で暮らしたいという、冷静に考えればかなり打算的なものだったと言えるでしょう。
しかし、ここでその「不純」な動機を持ったりんを迎え入れてくれたのは、今も神田駿河台のニコライ堂に名を遺すニコライ主教、のちに日本の教区を担当した主教たちの中で最初に大主教に叙聖された寛い心の持ち主でした。
完璧な東北訛りの日本語を話すニコライの引き立てもあって、順調に聖像画工房の立ち上げにも参加しながら、絵の勉強にも励んでいたりんに聖像画工房の画工になるための修行へのご褒美として、ロシアに留学してさらに西洋画の研鑽に励むチャンスがやって来ました。
試練は行きの船旅でいきなりやって来ました。船底の三等船室に放りこまれ、三度の食事は一、二等船室の客の食べ残しばかりという待遇は、当時いかに将来を嘱望された人間であっても日本人がヨーロッパ人のあいだでどう見られていたかを象徴する事実でしょう。
しかし、下級武士の貧しい生活に慣れていて、体の頑健さも誇りとしていたりんにとって、この経験はやりすごすことのできる試練でした。本当の試練は、ロシアの修道院に落ち着いて、日々聖像画を描きながら西洋画の勉強をつづけようとしたときにやって来たのです。
「お化け絵なんて、描きたくない!」
徐々にサンクトペテルブルクにあるノヴォデーヴィチ女子修道院の暮らしにも慣れ、ときおりまさに西洋画の殿堂とも言うべきエルミタージュ美術館に行くことも許されるようになりました。
18世紀半ばにエカチェリーナ2世の私的な美術品コレクションとして始まって以来、西欧諸国に対する文化的な遅れを意識していた歴代のロシア皇帝たちが進んだ西欧諸国のさまざまな絵画や彫刻を精力的に集めた美術館です。
そこから、りんは本来の仕事である聖像画工房の画工としての仕事に励むよう諭され、きびしい現実の世界に引き戻されます。
「忠実に先人が描いたこの聖像画を模写するように」と渡された絵は、りんにとって遠近法も明暗の描き分けもまったく無視した、のっぺりと平板な絵で、稚拙そのものとしか思えませんでした。
エルミタージュの絵画や彫刻を見た興奮冷めやらぬりんには画家としての天分や個性を押し殺し、描いた絵に署名することも許されない、制約でがんじがらめになったような世界と感じられたことでしょう。
いっそのこと、歴史の重みが貫録になっている次のような聖像画であれば、まだしも時代背景に思いを馳せて真剣に取り組むことができたかもしれません。
まったく違うふたりの聖像画家が、時代はそれほど違わない時期にロシアで最も人気のある聖人と言われる聖ニコライを描いた典型的な聖像画です。
右手は、まさに今祈りを始めようとする指先をかたどり、左手には読書好きだったとされるニコライを象徴する聖書を捧げ持ち、肩掛けの両襟と心臓より少し下に十字架が配置され、肩掛けのいちばん下は、おそらく三位一体を象徴する3本の横線が入っています。
じつは右上の聖ニコライが描かれたすぐ後の17世紀末には、イタリアルネサンスの残照とでも言えるのかもしれませんが、聖像画家が自分の個性を発揮することを許容するような絵も描かれていました。
聖ニコライと先駆者イオアン(カトリックやプロテスタントにとっての洗礼者ヨハネ)は型どおりのシンボリズムそのものですが、背景や足元には現在にいたるまで名前が伝わっているこの画家の個性を発揮した筆致がはっきり出ています。
しかし、わずかに写実性に目覚めたかのように見える聖像画の中の「異端」は、その後19世紀には一方で聖像画と象徴派の折衷的な絵と、他方でシンボリズムに徹して突き抜けてしまった前衛絵画へと流れていきました。
西欧の画家の個性や天分が解放された絵を至上と見、そこまでの進歩の距離であらゆる絵画を評価していたノヴォデーヴィチ女子修道院での修業時代のりんにとって、それは明らかな退歩だったのでしょう。
「とにかくお手本どおりに模写しなさい」としか言ってくれない修道院副院長と聖像画工房責任者の姉妹と、「こんな絵を模写しても私の絵の修行にはならない」と拒否するりんとの戦いは、ついに頑健さを誇っていたりんの体をむしばむまでになります。
体中に原因不明の発疹が生じ、眼は醒めてもベッドから起き上がれないほど現代医学で言う心身症が悪化して、りんは修行半ばで日本への帰国を余儀なくされます。
ニコライ主教は快く迎え入れてくれたが
こうして日本に戻ったりんをニコライ主教は暖かく迎え入れ、聖像画工房の主任という大役を任せてくれました。忙しく先人の聖像画を模写し続けるりんは、それでもなお芸術を選ぶのか、信仰を選ぶのか迷っていました。
そして、信者たちが祈りを捧げる聖所と主教や司祭たちが祈禱をおこなう至聖所とを隔てる聖障一杯に描かれた6面の小さな聖像画すべてが、ノヴォデーヴィチ女子修道院聖像画工房責任者であるフェオファニア姉が精魂こめて描いたものだと知らされ、打ちのめされたような衝撃を受けるのです。
そして、自分には聖像画工房の主任を務めるための信仰が欠けていたと悟り、厚遇してくれたニコライ主教にいとまごいをします。「見切り」のおりんが、自分の信仰心のあやふやさに見限られたとも言えるでしょう。
ニコライ主教はこのいとまごいを許してくれ、その後りんはようやく日本でも普及し始めた銅版画や石版画の原画創作に没頭します。そして、ニコライ主教が逃げるように去った自分のことを非難せず、「教団はたったひとりの聖像画家を失った」とだけおっしゃったことを耳にするのです。
自分の信仰心があやふやなことを自覚した上で、なんとかニコライ主教を助けたい一心で、もう一度聖像画工房に出戻りを願い出ると、今度も主教は快く受入れてくれました。
「工房、あのままにしてあるよ。お前(め)さんの後釜、だれも来てくれねえんだから」ということばで。
それからは聖像画の制作に終始する日々が続きます。イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)や生神女マリヤ(聖母マリア)や数え切れないほどの聖人像に祈りを捧げに来た人たちは、決して画家の個性や天分に祈りを捧げに来たのではないと、心の底から納得がいったからでしょう。
生意気な弟子が「こんなつまらない絵の模写なんてしていられない」と言えば、「ただひたすら模写しなさい」とフェオファニア姉が言ったのとそっくりのことしか言わず、出ていった弟子が立派な洋画家になればそれも良し、工房に戻ってくればそれもまた良しとして。
ロシア正教の聖像画家たちが、ルネサンス以来の文芸復興、人間解放に背を向け古来の聖像画の模写にこだわり続けたのは、果たしてほんとうに退歩だったのでしょうか。
ローマ教皇庁は俗世間の政治に介入し続けたあげく、ルネサンスとともにカトリック以上に異教徒や異民族に過酷なプロテスタントを生み、南欧、西欧、そして北欧のヨーロッパ人たちをその他全世界への侵略、略奪、虐殺に駆り立ててしまいました。
それに比べると、俗世の権力はビザンツ(東ローマ)皇帝や、オスマントルコのスルタンやロシア皇帝に委ね、精神世界の権威を守ることに終始したギリシャ正教からロシア正教への流れのほうが、信仰の正しいあり方のように思えるのですが。
とにかく、若い芸術家志願の人たちに読んでいただきたい本です。
読んで頂きありがとうございました🐱
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