技術万能思想にひそむ人種差別の暗い影 ブログ版
こんにちは
かなりのちの時代になってから描かれた想像図や、様式美と言えるほど類型化された土器のレリーフも含まれていますが、大西洋奴隷貿易が盛んだった頃の実写映像に近い写実的な画風の同時代人が記録した絵もあります。
上段は、アングロサクソン系の入植者たちが北米大陸に定住するようになってから400年以上も経つというのに、法律上だけでも黒人が白人と平等に扱われるようになったのは、たかだか直近の約70年間に過ぎないことを示しています。
生物学的には人類は1類1種であることが確認済みです。つまり世界中のどこの民族や人種同士の組み合わせでも男女が交われば子どもは生まれるという意味で、人種とか民族と言っても、種として独立したカテゴリーではないということです。
ちょっと遅くなりましたが、先月末にYoutubeで配信させていただいた『技術万能思想に潜む人種差別の暗い影』のブログ版をお届けします。
Youtube版はこちら↓
今回の内容は以下の4点にまとめることができると思います。
- 北米大陸の東海岸(大西洋岸)に細々としがみつくように形成された英領十三植民地、現在のアメリカ合衆国の母体が、世界初の完全監視社会だったこと、
- 社会制度としてそこで暮らす人間たちにとって住みやすい場所だったかはともかく、経済効率は非常に良かったこと、
- この経済効率の良さのしわ寄せはほぼ全面的に絶滅に近いかたちで片隅に追いやられた先住民(アメリカン・インディアン)と黒人奴隷に集中していたこと、
- 同じアングロサクソン系イギリス人が開拓した植民地の中でも、アメリカほど経済的に成功しなかった国々に、能力主義と結びついた人種差別思想が蔓延したこと。
それでは、まず世界史の中でいろいろな時代にさまざまな国々で奴隷制は存在していたという事実から、確認していきましょう。
古代から近現代まで、奴隷制は存在していた
次の4枚の絵をご覧ください。
かなりのちの時代になってから描かれた想像図や、様式美と言えるほど類型化された土器のレリーフも含まれていますが、大西洋奴隷貿易が盛んだった頃の実写映像に近い写実的な画風の同時代人が記録した絵もあります。
たしかに、古今東西いろいろな場所で奴隷は存在していました。そして、その事実を根拠に「奴隷制が存在していたのはアメリカだけはない。もっと残酷な奴隷制度もあった」といった議論も見かけます。
ですが、私は生まれ育った土地との風土や言葉の違い、そして奴隷にされた人々の身体的特徴が遠目でもはっきりわかるほど奴隷主階級である白人たちと違っていたという点で、北米大陸からカリブ海諸国でおこなわれていた奴隷制ほど効率的に強制労働をさせていた社会制度はなかったと思います。
右下隅の大西洋奴隷貿易を主題にした写実的な絵の左上部分にご注目ください。かなり太い木の股で首を抑えられた黒人がひざまずいているところに、奴隷商人のもとで働く監視人が、大きく斧かまさかりを振り上げています。
その場で頭をたたき割って殺してしまうほどの大罪というと、同じように捕まっていた仲間を逃がしてやったことぐらいしか思い浮かびません。いったん奴隷商人に捕まった黒人はほぼ絶対に故郷に戻ることはできないと知れ渡っていたからこその大罪であり、厳罰なのでしょう。
次は、そのへんの事情を文章としてまとめたものをご覧いただきましょう。
そして、どんなにつらい労働に従事させられたとしても逃げ場がなく、また逃げてもすぐに連れ戻されてしまうことが多いことが奴隷主たちにとって高い生産効率をもたらしたのだと考えています。
とにかく、家族や生まれ育った地域社会から引きはがされて、ことばも、動植物の生態系も、まったく違うところに連れてこられて、武装した監視人のもとで強制労働をさせられるのです。
また、肌の色を始めとして、さまざまな点であまりにも奴隷主階級を形成している白人たちとは身体的特徴が違っています。
なんとか自分が働かされている農園からは逃げたとしても、「だれの持ちものか分からないが、とにかくだれかの奴隷であることは間違いない」と思われ、すぐに捕まってしまうことが多かったでしょう。
この強制労働にはかかせない監視作業のコストが非常に低い労働力だったという点で、近現代に北米大陸とカリブ海諸国でおこなわれていた奴隷制は、それまでの世界史に登場したあらゆる奴隷制とまったく異質なものになっていたことが重要です。
先ほどの4枚の絵のうち、左上は古代エジプト文明に記録が残っているヌビア(現在のエチオピア、スーダンなど)人奴隷も、白人系か中東系だった奴隷主階級と違って黒人だったので、身体的特徴はかなりはっきりしていました。
ですが、エジプトとヌビアは地続きで、自分が生まれ育った土地も南方向にあることは分かっていたでしょうから、なんとか逃げ出すことに成功すれば、故郷に戻れた人もかなりいたのではないかと思います。
右上の古代ローマに奴隷制が存在していたことや、中世に入ってから獰猛なヴァイキングなどの北欧系諸民族が、比較的温和な農耕民の多かった西欧や南欧の白人を捕獲して、中東などで売ったことも、たしかな事実です。
でも、生まれ故郷からの距離や身体的特徴の差、話すことばがまったく分からないか多少なりとも想像がつくか、逃げ出したときに野生の草木や動物を見て食べられるかどうか判断できるかといった点で、北米およびカリブ海での黒人奴隷の境遇ほど悲惨ではなかったでしょう。
これらすべての点が、奴隷所有者たちにとって奴隷をさぼらずに強制労働させるために非常に有利な条件となっていたのです。これがどのくらい監視人の人数を節約するのに役立っていたか、はっきり示している図表があります。
ジャマイカの大農園主、ヘンリー・ドーキンズが2つの教区にまたがって所有していた8つのエステートと3つの畜舎、その他施設3ヵ所、合計で2248人という大勢の奴隷を使役していたのですが、監視人はわずか43名で済んでいます。
最大のエステートが奴隷約450人に対して監視人10人、2番目に大きなエステートが奴隷約350人に対して監視人7人と、ひとりの監視人が50人を見張ることができていたわけです。これは手元に銃のような武器を持っていたか、いなかったかだけでは説明できない監視人数の節約ぶりだと思います。
そして、ほとんどの島で先住民がヨーロッパからの入植者たちが持ちこんだ疫病で死滅してしまってから、本格的な大規模サトウキビ農園と併設した搾汁工場を経営していた大大地主たちは、競ってアフリカから輸入する黒人奴隷を買いあさりました。
およそこの世でいちばん「慈善事業でやっているわけじゃない」という形容がぴったり当てはまるのは奴隷商人でしょう。その奴隷商人たちが長い航路分の食糧や水も積みこみ、自然災害や海賊に襲われたときのための保険もかけたかなりの高値でも、まさに飛ぶように売れたと言います。
当時バルバドスでサトウキビ農園と搾汁工場を経営していた大地主のひとりは、「(奴隷は)買えば買うほど買う力が増す」と表現するほど効率のいい設備投資だったと日記につけていました。
この例はカリブ海に浮かぶジャマイカ島の実例ですが、同じ1779年には独立戦争の最中だったアメリカでは、農園経営はこれほど大勢の黒人を使っていなかったと考えるべき根拠があるでしょうか。
私はないと思います。むしろ、カリブ海に浮かぶ島々より広大な土地をひとりの農園主が所有していたケースが多かった分だけ、働かせている奴隷の人数も多かったのではないかと思います。
もうひとつ注目していただきたいのが、おそらく独立戦争当時のアメリカで最大の事業規模を持つビッグビジネスを切り盛りしていたのは、まだやっと端緒に就いたばかりの機械制大工場経営者ではなく、奴隷制大農園主だったはずだという事実です。
きびしい監視と、刷り込まれた固定観念
この頃のアメリカの製造業工場の大半は従業員規模で100人未満、ごくまれに200~300人の大規模製造業が育ち始めていた程度だったでしょう。アメリカのビッグビジネスは、圧倒的多数の奴隷に対して一握りの(多くの場合白人の)自由人が常時武器を携行して監視するというかたちで出発したのです。
次にご覧いただくのは、コンピューターグラフィックスの発展が可能にした、モノクロ写真に色を塗ることによって細部のデティールが浮かび上がってきた彩色写真2点です。
のどかとは言っても、屋根のすぐ下の三角形の部分に大きく書きこまれた陶器やガラス器と一緒に奴隷も売っていたし、高額商品なので定価販売だけではなく、競売もしていたことが1階軒下の横長の看板で分かります。
左側の写真は、こうして農園主に買われていった黒人奴隷がどれほどひどい肉体的苦痛に耐えていたかを示しています。南北戦争中に北軍兵士に保護された、ほぼ間違いなく逃亡奴隷の背中です。
たった1回脱走して捕まって罰を受けただけで、背中一杯にこれほどミミズ腫れの跡ができるほど何度も鞭で打たれていたとしたら、その場で死んでしまうのではないかと思うほど多くの傷跡が盛り上がっています。
おそらく何度も脱走して、そのたびに連れ戻されていたのだと思います。不屈の精神力には敬服しますが、捕まればこうした折檻を受けること覚悟で何度も逃げ出したくなるほどつらい日常生活を送っていたのでしょう。
次はかなり後の時代、多分19世紀末か20世紀初頭、広告宣伝がそうとう活発におこなわれるようになってからの、日用消費財の宣伝ポスター2枚です。
白は優秀で純粋、黒は劣悪で存在そのものが汚れているといった固定観念を強烈に刷りこむ意図がとてもはっきり出ているポスターだと思います。
そして、この白と黒というこれ以上鮮明な対照はない組み合わせに、なぜ北米大陸に乗りこんだヨーロッパ系の入植者たちの中でも、イギリスからの入植者たちはとくに執拗に先住民であるアメリカン・インディアンたちを殲滅しようとしたかも表れています。
白と黒のあいだに様々な中間色が入りこんでスペクトラムやグラデーションになって、対立があいまいになり、隷属身分の人間の見分け方がむずかしくなることを恐れていたのです。
だからこそ、フランス系、スペイン系、ポルトガル系の入植者たちは先住民と白人、あるいは黒人と白人の存在を認めていたのに、イギリスからの入植者たちは先住民は殺し尽くし、1滴でも黒人の血が混じったら黒人=奴隷身分ということにして、中間色の人々の存在そのものを認めようとしなかったのです。
20世紀半ばまで欧州と北米だけに対外純資産
次のグラフは、16世紀から南欧・西欧諸国がアジア、アフリカ、南北アメリカ大陸、オセアニアを植民地化する過程で、いかに多くの富が中核ヨーロッパと呼ばれる国々に集中したかを示しています。
19世紀全体から20世紀前半までは、ほとんど中核ヨーロッパだけが対外純資産を持ち、しかも1880~1915年には対外純資産が地域GDPの約1.4倍となっていました。
そして、この時期に中核ヨーロッパ以外で対外純資産がプラスになったのは、ナポレオン戦争直後、南北戦争直前、そして1920年以降の北米/オセアニアだけです。当時の経済規模から見れば、北米/オセアニアとは事実上アメリカ1国と言っても差し支えないほどアメリカだけが突出していました。
このグラフの共同作成者のひとり、トマ・ピケティは次の2枚組グラフも作成して、「この中核ヨーロッパへの富の集中は、ヨーロッパ列強が宗主国の地位を利用して、自国が提供する工業製品の価格を高く、植民地から輸入する一次産品や天然資源の価格を安く設定したことから来ている」と結論しました。
鉱物などの天然資源、農林水産物などの一次産品をふくめて貿易収支を算出すると、中核ヨーロッパ諸国は常に、しかもかなり大幅な赤字になっていたのです。
中核ヨーロッパは、工業製品だけの貿易収支に限定するとほぼ一貫して黒字ですが、アメリカで南北戦争が終わった1860年代半ばには早くもピークを打って、その後はなだらかな下げ基調が続いています。
中核ヨーロッパに代わって工業製品輸出で富を築いたのは1890~1920年代と1940~60年代のアメリカを中心とする北米/オセアニアと、1960年代以降の日本を中心とする東アジア諸国でした。
アメリカを中心とする北米/オセアニアが工業製品ではっきり黒字を出していたのは、1910~30年代と、1940年代後半から1960年までという意外に短い期間だったのです。
天然資源の豊富なカナダやオーストラリアが資源輸出中心で工業化が遅れたという要因もありますが、むしろ、そもそもアメリカはあまり世界市場で稼げる工業製品を量産できなかったという見方にも説得力があります。
その点、天然資源ではほぼ一貫して輸入超過の中核ヨーロッパが財全体の貿易赤字で世界GDPの2%台前半まででとどまっていたのは、工業製品輸出で世界GDPの1.5~3.0%の黒字を稼いでいたからだと納得できます。
とは言え、中核ヨーロッパは財全体の貿易収支は比率として小さくても一貫して赤字だったのに、なぜ19世紀を通じて一貫して世界中に対外純資産を築くことができたのかという疑問は残ります。
その答えは「アフリカ原産」の黒人奴隷をカリブ海諸島や北米大陸に持ちこむ仲介貿易の利益であり、それにともなう金融サービスの利益だったと考えるのが妥当でしょう。
さらにアメリカでは、まだ機械制工場生産が本格化していなかった1810年代にも、1840~50年代にも対外純資産を築いています。
それが1860年代以降いったんなくなるのは、奴隷解放以前は黒人奴隷の担保価値を利用して対外純資産も築いたし、南部の黒人奴隷が南北戦争の結果無償解放されてしまったので、対外純資産も対外純債務に転落したのだと考えれば、納得できます。
黒人奴隷の資産価値は凄まじく高かった
黒人奴隷にそれほど大きな資産価値があったのかとご不審の向きもいらっしゃると思います。ところが、アメリカで強制労働に従事していた黒人奴隷の価値は、異常と言ってもおかしくないほど大きかったのです。
まず、次の2枚組グラフの左側をご覧ください。
独立戦争直前の1770年のデータですから、南部諸州、北部諸州と呼ぶのは正確ではありませんが、南部とはバージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージアの4植民地のことです。
そしてバージニアの北に隣接するメリーランドから北側の9植民地は北部ということになります。この当時で国民総資産が年間所得の約3倍に達していたのは、かなり裕福な地域だったことを示しています。
それにしても驚くべきは、当時南部4植民地が年収の約6倍という莫大な総資産を保有していて、北部との差はほぼ全部奴隷を大勢所有しているか、そうでないかにかかっていたという事実です。
右側に目を転じると、北部でもメリーランドには十三植民地中4位の6万3800人、ニューヨークには5位の1万9000人という奴隷がいたのですが、北部全体で奴隷の資産価値は年収の5%程度にとどまっていたのに対して、南部では年収の3倍近い資産価値となっています。
そして、サウスカロライナの7万5000人、ジョージアの1万5000人という奴隷人口は植民地内総人口の6割を超え、バージニアの18万8000人弱は総人口の40~60%に達していたのです。とは言え、黒人奴隷人口が白人人口の3倍とか4倍というほど多かった植民地はなかったと推定できます。
それでいて、黒人奴隷の資産価値が年収の3倍分に達していたという事実は、黒人奴隷の労働生産性がいかに高かったかを物語っています。しかも、黒人奴隷の資産価値は労働生産性以外の要因からもさらに高くなっていたのです。
次の2段組グラフをご覧ください。
上段は、奴隷所有者は奴隷の全人格を所有しているわけですから、黒人奴隷の労働によって創出した価値は所有者の労働収入の増加分となることを示しています。
そして、奴隷ひとりを所有することによる労働収入増加分は2020年価格で1804年の約10万ドルから始まって、1860年の約17万ドルへと順調に伸びていたことが分かります。17万ドルというと普通のオフィスワーカーというよりはビジネスマンの年収と呼ぶべきでしょう。
これが、隷属身分の可視化によって監視コストを下げながら強制労働を徹底したことによる利得分と言えるでしょう。
下段には、奴隷を所有することにはさらにプラスアルファの所得増加分があったことが描かれています。
こちらは1804年の約23万ドルから出発して、ピークの1836年には約43万ドルまで上昇し、その後奴隷を長期保有することのリスクが上がって1860年には約35万ドルまで下がりました。ピークからはやや下がった1840年前後の価格でも、戸建て住宅1戸分に相当したようです。
なぜ労働価値の増加分に加えて、これほど大きなプラスアルファが生じたのでしょうか。
私は、黒人奴隷を男女数人ずつ所有していると子どもが生まれるたびに新しい奴隷が増え、しかも順調に一人前の奴隷として使役できる年齢に達した「国内産」奴隷は輸入奴隷よりさらに割高で取引されていたことが最大の理由だと思います。
奴隷を軽量で小回りが利き、力仕事も細かい手先の仕事もできる万能機械と考えると、ふつうの機械よりはるかに優れた点がひとつあることに気づきます。
機械は使っているうちにだんだん性能が劣化し、やがて新しい機械に取り換えるために、毎年減価償却費を積んでおく必要があります。一方、奴隷は自分が「老朽化」して使えなくなった頃には一人前になっているように、自分たちで後継機を生み、育ててくれるのです。
隷属身分の可視化こそ植民地帝国成功の鍵
しかし、こうした利点のすべては奴隷身分が一目で分かるように可視化され、どんなにつらくやりがいのない仕事でも、ほんの少しでもマシな待遇で働けるようにしてもらうために一生懸命働かざるを得ない立場に黒人奴隷を追いこみ続けていたからこそ生じていたのです。
上のグラフでも奴隷制の持続可能性に疑問が生じた1830年代半ばにはすでに奴隷の産み出す総合的な付加価値が下がっていたことが分かりますが、次の2段組グラフもそのへんの事情を明瞭に浮かび上がらせています。
上段は、アングロサクソン系の入植者たちが北米大陸に定住するようになってから400年以上も経つというのに、法律上だけでも黒人が白人と平等に扱われるようになったのは、たかだか直近の約70年間に過ぎないことを示しています。
「奴隷は解放されたのに、人種的偏見によって差別が続いた」時代が90年以上もあったという表現は正しくなく、奴隷制度があろうとなかろうときつく汚い仕事を低賃金でさせ続けるために人種的偏見を利用していた時代が長かったと見るべきでしょう。
なぜ黒人にはきつく汚く低賃金の仕事をさせ続けるのかの理由として、「黒人は元々知的能力が低い」とか「自分でもあまり責任を持たずにやれる程度の仕事をやりたがるから、そういう仕事に黒人が集中する」といった人種的偏見が持ち出されるわけです。
生まれ育った環境や受けることのできた教育を無視したままの「能力主義」は、常に人種差別の隠れ蓑となる危険を伴っているのです。
下段は、1850年の時点でたとえすでに自由民になっていた黒人にも自由に住む場所を選ぶ権利を与えていなかったことがはっきりわかる黒人中の自由民比率の分布地図になっています。
もし黒人自由民がほんとうに自由に居住地を選んで棲み分けていたら、この地図では青緑色になっている自由民比率が10.1~99%という地域がこんなに狭くなるはずはないでしょう。
しかし現実には、南部諸州から西部開拓時代にアメリカの版図に収まった地域のうちカリフォルニア州を除く大部分が黒人自由民は2%以下になっています。この黄色の地域では黒人を見ればほぼ確実にだれかの所有している奴隷なのです。
逆に、濃紺に塗り分けたカリフォルニア州とニューイングランド諸州プラス中西部諸州では、黒人自由民人口99.1%以上になっていて、この地域で黒人を見れば、ほぼ確実に自由民なのです。
これは、黒人を見れば自動的に奴隷と判断できる土地をできるかぎり広く温存して、黒人奴隷の監視コストを低く保つための、強引な「棲ませ分け」でしょう。
そして、こうした工夫を凝らして奴隷解放以後も延々と黒人を低い身分のままに放置してきた咎めは、21世紀も4分の1が過ぎた現代になっても解消されずに残っているのです。
上段は白人と黒人の時給格差ですが、1980年代以降いわゆるニューリベラルズムの時代にむしろ拡大し、かなり長期にわたって20%以上の格差が続き、国際金融危機以降やっと緩やかな縮小に転じて直近でやっと16%台に下がったことが分かります。
平均時給で16~24%の差はそれほど大きくないとお思いかもしれません。ですが、その差が少しずつでも毎年翌年以降のために資産を残せるか、その年の稼ぎをぎりぎり一杯その年のうちに遣わざるを得ないかの違いになって、資産形成では決定的な差になるのです。
下段がまさに、その大きな違いを示しています。こちらは白人世帯の平均資産が黒人世帯の平均資産の何倍かを追跡したグラフです。
さすがにまだ奴隷制が存在していた1860年から解放後5年経った1870年まででは、白人世帯の平均資産は黒人世帯の56倍から23倍に下がっています。
しかし、その後の歩みは遅々としたもので、1922年になっても10倍、1949年でも7倍でした。これまでのところ1983年の5倍が最低で、資産所得がないと苦しい金融資産インフレの中で2019年には6倍と格差が拡大してしまいました。
もし社会制度や暴力などの障害がなければ2019年の時点で格差は3.2倍まで縮小していたはずだというのですが、そもそも白人世帯の平均資産が黒人世帯の3.2倍にもなってしまうこと自体が、長すぎた奴隷制時代と人種差別時代の負の遺産と見るべきでしょう。
結局のところ、植民地帝国として成功した宗主国ほど、先住民の生き残り確率が低いという残酷な事実が次の表から浮かび上がってきます。
ニュージーランドだけ、先住民の中でも唯一マオリ族が14%と非常に高くなっているのは、ちょっと注釈が必要です。
ニュージーランドでは人種民族系統が自己申告制で、しかもニュージーランドの白人のあいだで先住民各部族中もっとも尚武の気風の強いマオリ族にあこがれて、マオリを名乗る人が多いので、この数字になっているようです。
そして、資本主義的な経済発展ではイギリス、アメリカ、ドイツに後れを取ったとはいえ、先進国としての地位を守ったフランスが宗主国だった国々の先住民比率も深刻に低下しています。
イギリスの植民地だったアメリカのように、先住民はほぼ殲滅し、奴隷として使役するための労働力はそっくりまったく違った風土で生まれ育った黒人に入れ替えて監視コストを低くするという荒業を実施した旧フランス植民地はありませんでした。
ですが、旧フランス植民地で先住民族の総人口に占めるシェアがこんなに下がった国々が多いのは、経済合理性とは無縁の差別待遇がかなり大きかったのではないかと思います。
それに比べて、資本主義的経済発展競争でも、植民地獲得競争でも比較的早めに降りてしまったスペインは、先住民族の生き残り比率も比較的高く、白人と先住民の混血であるメスチソが軒並み人口比率で1位か2位になっています。
このへんの数値を見比べると、「資本主義経済の世界的発展には何ひとつやましいところはない」といったグローバル資本主義礼讃者たちのことばは、どうにもうつろに響くのですが。
カナダの課題は英仏バイリンガル化だけ?
同じ北米大陸の旧イギリス植民地でも、カナダはアメリカほど露骨な人種差別のないところだし、深刻な問題はフランス系国民がほんとうにイギリス系と対等になれるかだけだといった印象をお持ちの方も多いようです。
実際に南北戦争をきっかけとした奴隷解放以前には、たとえ南部の奴隷州から救い出した黒人でも北部の「自由州」でリンチに遭って殺されることもあるから、安全なカナダまで送り届ける地下鉄道という組織が存在していました。
ただ、カナダに黒人奴隷制が定着しなかったのは、カナダ植民地の白人たちがアメリカの白人たちより人種的偏見が少なかったからというより、カナダには強制労働で大きな収穫の期待できる農作物を栽培できる気候風土がなかったからという要因のほうが大きそうです。
というのも、黒人奴隷制や黒人に対する人種差別が公然と法律によって守られていたアメリカのように、多くの抵抗を乗り越えて公民権運動によって黒人たちが少なくとも法律上の平等を戦い取ったという伝統がないので、びっくりするような人種差別的言動をアメリカより頻繁に見かけるからです。
次の4枚の写真をご覧ください。
生物学的には人類は1類1種であることが確認済みです。つまり世界中のどこの民族や人種同士の組み合わせでも男女が交われば子どもは生まれるという意味で、人種とか民族と言っても、種として独立したカテゴリーではないということです。
ところが、カナダにはアメリカよりはるかに多く、上のような写真をXなどに投稿して「だから、1類1種とは言っても白人は有色人種より優秀なんだ」と主張する人たちを見かけるのです。
トランプ政権が2度にわたって成立してからというもの、アメリカでもかなり人種差別的言辞に対するタブー意識は薄れている気はします。ですが、さすがにアメリカでこの手の投稿をして身元がばれたら、やはり地位や名誉を失いそうな言動がカナダでは平然と許されている気がします。
そもそも、カナダという国はアイスホッケーが国民的スポーツとして盛んで、フランス系住民の多いケベック州を中心にフランス文化の伝統が残っているということ以外では、ほとんど独自性のない国です。
政治・経済・社会あらゆる場面でアメリカにぴったり吸い付いて動くコバンザメ的な国で、だからこそ「アメリカの51番目の州になったほうが国民にとっても得だろ」とトランプに揶揄されるような国なのです。
そのカナダには、アメリカのような気候風土で黒人を使役して急速な経済成長を遂げるチャンスがなかったことに対する憤懣を、アメリカ白人に向けずに自分たちを経済的に押し上げてくれなかった世界中の有色人種に向けているという印象があります。
大英帝国内のカナダ連邦で初代と3代目の首相となったジョン・マクドナルド卿も、大不況さ中の1933年にニューヨークで創設されたテクノクラシー党のカナダ支部を率いていたジョシュア・ハルデマンも、そういう傾向の顕著な人たちです。
また、右はジョシュア・ハルデマンではなく、ニューヨークでテクノクラシー党を創設したハワード・スコットです。
彼は自分自身がエンジニアだったからでしょうが、「政治家も企業経営者も労働組合幹部も、みんなダメだから、国内でもっとも能力の高いエンジニアを元首にして、彼がエンジニアとしての能力順に重要閣僚を指名するような政治制度にしよう」と提唱してテクノクラシー・インクという政党を創設しました。
この「ありとあらゆる問題には技術的な解決策があるはずだ」と唱えた政党は、1933年というとんでもない閉塞感に覆われた時代風潮にも便乗して、一時はかなり人気を集めたようです。
好き好んで人種差別国家に移住する人たち
この党の創設当時からのメンバーで、カナダ人としてカナダ支部を切り盛りしていたのがジョシュア・ハルデマンで、彼はイーロン・マスクの母方の祖父に当たります。
技術万能主義、能力万能主義は往々にして人種差別主義の隠れ蓑になると申し上げましたが、このハルデマンが能力主義を人種差別と結びつけるタイプの典型で、あまりにも人種差別主義的言動がひどすぎて、結党以来の同志たちからも疎んじられ、新天地でやり直す気で移住した先が南アフリカでした。
まだアパルトヘイトが法律として確立されていたわけではありませんが、南アフリカは最上位がイギリス系白人、二番目に偉いのがアフリカンナーという旧オランダからの入植者たち、その下にインドからの移民、最底辺に黒人たちという人種差別が社会の隅々まで浸透していた国です。
当時の、そして1991年にマンデラ革命が成功してアパルトヘイトが廃止されるまでの南アフリカは、次の写真のようなことが日常茶飯事として起きる国でした。
黒人たちは突然なんの理由もなく、白人警官に獰猛な警察犬をけしかけられ、ズボンを噛みちぎられ足から血を流しながら「犬をけしかけないでください」とお願いするときにも「マイ・ボス(旦那様)」と呼びかけなければならないという卑屈な態度を強要されていたのです。
こういう国にわざわざ移住したがる人間の心境というのは、まったく謎ですが骨の髄からの人種差別主義者であることは間違いなさそうな気がします。
そのハルデマンに溺愛されて育った娘が、南アフリカの起業家として成功していたエロール・マスクと結婚してできた子どもがイーロン・マスクだったわけです。
マスクが新興EV企業テスラ社を乗っ取るときの資金源はオンライン決済最大手にのし上がったペイパルを上場させて得たカネでした。
この上場で儲けてあちこちでベンチャー投資などしていた仲間、いわゆるペイパル・マフィアのうちでとくに仲が良かったピーター・ティールも、もともとドイツ人だった父親が一度アメリカに移住してから、南アフリカやローデシアといった人種差別国家に移住した人間でした。
「南アフリカで白人ジェノサイド」説の病理
南アフリカでアパルトヘイトが廃止され、マンデラ政権が誕生した1991年から26年も経った2017年になっても、人口の9%を占めるに過ぎない白人が持っている農地が全体の53%、人口の80%を占める黒人が持っている農地はたった22%という極端な資産格差はほとんど変わっていません。
政権こそ人口で圧倒的に多数派の黒人たちが獲得しましたが、白人圧倒的優位の経済格差はほとんど縮まっていないのです。もし、マンデラ政権主導で白人に対するジェノサイドが延々とおこなわれていたりしたら、とうていこんな数字のままではなかったでしょう。
次にご覧いただくのは、今もなお黒人のほとんどが極端な貧困状態にある中で、白人たちに奪われたままの農地をどういう手続きで収用していくかを政府役員が地域住民に説明する集会の写真が右上、その他の3枚は貧しさの実情を示す写真です。
にもかかわらず、第2次トランプ政権発足当初のトランプは、政府効率化省長官という重要ポストについていた頃のイーロン・マスクに「南アフリカで白人ジェノサイドが進行している」というガセネタを吹き込まれて、事実をチェックもせずに信じこんでしまいました。
南アフリカ大統領をホワイトハウスに呼びつけて、「お前の国で白人ジェノサイドをやっているのはけしからん。すぐやめろ」と言って、突き付けた証拠写真なるものがコンゴ民主共和国の部族間抗争で亡くなった黒人たちの遺体を写したもので、南アフリカとは何の関係もないことがすぐにばれてしまいました。
このデマの出どころであるイーロン・マスクは、南アフリカでもエリート白人子弟が集まる、イギリスで言えばイートンやハーロウのようなパブリックスクールに当たる名門男子高校に通っていたお坊ちゃんです。
イーロン・マスクとしては祖父が愛していたアパルトヘイト時代の白人優位が失われていくことへの危機感から「白人ジェノサイド」というような根も葉もない大ウソをトランプに吹きこんだというだけのことでしょう。
駄ボラで済まないのは、どうやらマスクは祖父が構想していたテクネイト(テクノ+ステイト)・オブ・アメリカという拡張主義的なアメリカ再編論もトランプに吹き込んでいたようで、トランプはこれもまた信じてそのとおりに動いていることです。
第1次政権では内向型だったトランプが、第2次政権では打って変わってカナダも、メキシコも、パナマ運河も、グリーンランドもアメリカに編入すると言い張っているのは、ジョシュア・ハルデマンが思い描いていたテクネイト・オブ・アメリカを忠実に再現しようとしているとしか思えません。
「ウクライナでも中東でも大言壮語しながら、ちっとも和平への道を探れないでいるトランプが、自分から火ダネを増やすようなマネをするだろうか」と疑っていらっしゃる方も多いでしょう。
しかし、トランプは「ウクライナでも中東でも失敗したから、今度はもう少し、自分のホームグラウンドに近いところで弱っちい敵を選んで大勝ちして見せよう」くらいの思い付きで平然と軍事行動を起こしかねない人間です。
おまけに人種は白人とユダヤ人、宗教はキリスト教とユダヤ教、それ以外の有色人種や邪教の信者は何人殺しても人殺しにはならないと信じている極めつけの人種差別主義者ですから、近々どこかで「名誉挽回」のための軍事行動に出る危険はゼロではありません。
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Foomii→増田悦佐の世界情勢を読む
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コメント
監視国家中国、人的監視に加えてITやAIを活用した人権抑圧国家の人的・物的費用は巨額ではないかと推測しています。
仮に、習近平指導部が崩壊したとしても、中国共産党の独裁システムが、人権尊重国家に変化するとは考えにくいことです。
この60余年、中国を「監視」してきたチャイナウォッチャーの「はしくれ」には分からないことが多すぎます。
世の中全体が予測困難な時代にあって、増田先生の大胆な予測・分析を心から期待します。