都市計画は時代の趨勢か? ご質問にお答えします その16

こんばんは 
今日は、先日こちらにも投稿し、ユーチューブで映像も配信した『都市型消費を守り発展させるために――第51回勉強会』の内容に関して、とても興味深いご質問をいただきましたので、お答えしたいと思います。

ご質問1:ママチャリの似合う街というコンセプトと、時代の変遷に伴う変化は不可避であり、そのためにはどうしても都市計画云々が持ち上がることは流れ的に必然である、この2つにどう折り合いを付けるべきでしょうか

お答え1:歴史的必然とか時代の趨勢という表現には、注意が必要だと思います。

とくに、日本でこうした表現を使う場合、暗黙の内に日本と欧米諸国で違っていることがあると、ほとんど例外なく、「欧米は進んでいて、日本は遅れている。だから、日本は欧米を見習って同じ方向に進まなければいけない」と主張する人が、いわゆる知識人、文化人に多いように思います。

ですが、実際には欧米諸国のほうが進んでいることもあり、日本のほうが進んでいることもあります。

都市圏交通では、日本が先進国で
欧米は後進国

都市内、そして大都市中心部と近郊とをどう移動するかという点では、日本の大都市圏は欧米諸国の都市圏よりはるかに進んだ交通インフラを持っています。

JR各線、私鉄路線、地下鉄、市街電車が縦横に組み合わされていて、しかも企業の枠を超えて乗り換えのしやすい拠点駅が市街中心部に適度に分散しています。

その結果、とくに東京・大阪・名古屋の3大都市圏では、だいたい大都市近郊の住宅地から通勤・通学する人は、自宅から歩いて5~15分ぐらいで最寄り駅に着き、1~2回の乗り換えで勤務先や登校先まで歩いて5~10分の駅で降りることができます。

じつは都市計画は、「どうすれば都市中心部の住宅・店舗・事業所の密集した地域を自動車というすさまじいスペース浪費型の交通機関が通過するようにできるか」という難問に取り組み続けている学術分野なのです。

クルマがどれほどスペース浪費型の交通機関か具体的にご説明しますと、マイカー運転でたったひとりが1キロ移動するために占有するスペースは、電車に乗って移動する人の100倍を超えます

自動車の中だけで考えると、それほど大きな差になるはずがないとお思いかもしれません。

でも、前後左右に車間距離を保たないと危険で、スピードを出すほどその車間距離を長くしなければならない自動車と、ラッシュ時の混み合う電車の中ではぎゅうぎゅう詰めになってもとにかく乗れる電車では、それほどの差があります。

そして、今までのところ、都市計画は都市を生活の基盤としている人たちの人混み、人だかりを排除するという「産湯とともに赤ん坊まで捨ててしまう」ような不細工な解決策しか提案できていません。

人混み、人だかりができてこそ店も繁盛し、街にも活気が出るのですから、これは解決策と言うより、むしろ都市の自殺に近い行為ではないでしょうか。

鉄道と徒歩、そして自転車によって移動する人の多い都市では、大規模な動線設計を中心とする都市計画はほとんど必要ありません。

とくに、画期的な技術進歩によって地上の土地所有権や借地権のおよばない大深度に新しい地下鉄路線を造ることが容易になった現代では、用地買収に応じない人たちの土地を強制収用してまでわざわざ幅員の広い道路を新しく造る必要は皆無に近いのです。

アメリカで都市計画が「不可欠」なのは
意図的に鉄道を衰退させたから

ここであらためて、なぜアメリカでは片側12車線とか16車線といった膨大な土地を必要とする高速道路や、複雑怪奇なインターチェンジが必要になってしまったのかを、考えてみたいと思います。

次の写真は、立体交差なしに日本でいえば右折車に当たる左折車があまり長いこと信号待ちをしないでも進むことができるという理由で「エンジニアリング賞」を受賞したインターチェンジです。

でも、実際に供用されてから衝突事故が続出し、改修後はやや事故は減ったけれども信号待ち渋滞は相変わらずというインターチェンジです。


一応、横断歩道の縞模様は見えますが、お年寄りや足の悪い方だけではなく、ほとんどだれも使って反対側に渡る気になりそうもない殺風景な場所です。

このインターチェンジの構造的な欠陥についての投稿の中には、「さいわいいっぱい木が立っているののだから、あれを伐採してふつうの立体交差にしてしまえ」という乱暴なご意見も見かけました。

つまり、こういうふうに変えればいいということです。


いくら国土の広い国でも、クルマが通り抜けやすいというだけの理由でこれだけ膨大な土地を幹線道路の結節点ごとに使うのはやはりスペースのムダですし、おまけにそのためにせっかく生い茂っている木立を潰すにいたっては、ほんとうにもったいないと思います。

結局、アメリカで都市計画や道路工学がもてはやされるのは、クルマ以外に日常の交通手段がない人があまりにも多いからです。


ご覧のとおり、アメリカの就労人口のうち、4人に3人がたったひとりで自分のクルマを運転して勤め先に通っているわけです。同じ方向に行く人たちが一緒に乗って交通量を減らす努力をしている人たちも、10人に1人にもならない少数派です。

公共交通機関を使っている人は、20人に1人に過ぎません。

これだけ大勢の人たちがほぼ全面的に自動車に頼っているだけではなく、自分ひとりだけでクルマに乗っている人が多いわけですから、公共交通機関を利用する機会の多い国とは、年間の走行台・マイルが大きく違ってきます。

台・マイルとは1台ごとの走行マイル数と、走行している自動車台数を掛け合わせた数値ですから、平日の通勤・通学は公共交通機関を使い、休日に家族みんなでクルマに乗って買いものに行く人の多い国では、この数字はかなり低めに出てきます。

具体的には次の表のとおりです。


アメリカ国民は、ヨーロッパ諸国の約3~4割増し、日本と比べると140%増し、つまり2.4倍もの台・マイルを自動車で動いているわけです。

マイカーは、あまりにも
リスクの大きな交通手段

その結果、とくに国民生活にとって大きな負担となっているのが、交通事故で亡くなる方の多さです。


なお、表題の10億人・マイルとはこうした交通機関を使う人の数にそれぞれが何マイル使ったかを掛け合わせた数字です。

10億人・マイルがずいぶん膨大な数字に見えるので、それとの比較で最大のオートバイでも212人というのは、それほど深刻ではなさそうに感じる方もいらっしゃるかもしれません。

ですが、現在アメリカの人口は3億人を超えています。かなり控えめにそのうちの2億5000万人だけが交通機関を利用して移動しているとしても、これは移動距離4マイル(6.4キロ)当たりの事故犠牲者数ということになりますから、そうとう深刻な数字です。

スペース浪費という観点からはオートバイは自動車に比べてかなりの節約になりますが、これほど命を失う危険が大きいのでは、大勢の人たちが主な交通機関として依存することはできないでしょう。

そして、やはり移動距離4マイル当たりの数字として考えると、乗用車・軽トラックの約7.3人もかなり大きな数字ですし、在来鉄道、地下鉄・市街電車、バスに比べて20倍以上になっているのは、重大問題です。

都市計画を推進していらっしゃる方々は、「だからこそ、幅員も広く車線数も多い道路網を造ることが大切なのだ」とおっしゃいます。

ですが、これは実証研究の成果と正反対のご主張なのです。


このグラフでは、たんに右肩上がりではなく、指数級数的に急角度で右肩上がりになっていることにご注目ください。

具体的には、幅員が約7.3メートルの道路の事故発生確率がマイル当たり0.03件(100マイル走って3件)なのに対して、その1.5倍である幅員11メートルの道路の発生確率はマイル当たり0.16件(100マイル走って16件)と、5倍以上に激増するのです。

アメリカだけではなく、世界中で自動車事故はスピードの出しやすい広い道路で多発し、混雑渋滞の多い狭い道路ではほとんど起きないことが確認されています。

ですから、当初は「事故を防ぐために広い道路が必要だ」とおっしゃっていた方々も、最近では「事故が起きたときに救急車、消防車、パトカーが駆けつけやすいように道路を拡げる必要がある」とか「核戦争などで大勢の人たちが一斉に少しでも遠くまで避難しようとするときのために、道路は拡げなければならない」と微妙に広い道路の利点をずらした議論をされるようです。

しかし、莫大な資金と労力を使って都市改造をするにしては、あまり説得力のある理由とは思えません。それより、日常生活で事故が多発しないことのほうがずっと重要ではないでしょうか。

というわけで、最近ではアメリカの都市計画でさえ、大都市中心部では広い道路の車道部分に杭を打って道幅を狭めたり、禁じられていた並列駐車を解禁したりして、なるべく通り抜けるだけの自動車がスピードを出せない方向へと舵を切っています

幸い、日本では大々的に都市改造をしてまで道路を通りやすくする都市改造はめったにおこなわれませんでした。ですから、日本の大都市圏は交通事故犠牲者数の少なさでは、先進諸国でも突出しています。

今さら、「都市計画は時代の趨勢だから」と、せっかく狭くて安全な道路を広くて危険な道路にして、その後「欧米諸国では、最近道幅を狭める都市計画が流行っているから」と言ってまた狭めるという二度手間をかけるよりは、今までどおりにしていたほうがずっと得ではないかと思います。

日本の陸上輸送のコスト
パフォーマンスは抜群

なお、「たしかに安全性は高いかもしれないが、その代わり渋滞は多いし、短距離でも高速料金が高いので、経済損失が多いのではないか」とお考えの方もいらっしゃるでしょう。

ですが、これが大違いでして、じつは日本は先進諸国の中で陸上輸送コストが断トツに低いのです。


このデータの最終年次である2005年に、日本の道路で貨物1キログラムを1キロ運ぶときのコストは2セント弱でした。

オーストラリア・ニュージーランドは約6セント、アメリカ・カナダは9セント弱、ヨーロッパ諸国は9セント強と、日本は抜群の安さです。

日本では、高速道路は建設費の償却が終わるまで有料にしています。しかもけっこうなお値段ですから、高速道路を長距離走行するのはほとんど業務用車両です。

だから、首都高や阪神高速の一般道路との接点以外ではあまり延々と渋滞が続くことはありません。

一方、アメリカでは州間高速道路(インターステイト・ハイウェイ)をガソリン税でまかなって建設し、無料で一般開放しています。

当然、膨大な数のマイカー通勤者が使う上に、ドライブが楽しみで高速に乗る人も多いわけです。なので、主要都市同士を結ぶインターステイトでは、高速自体が延々と何時間も渋滞し続けることが多いのです。

というわけで、意外にもアメリカの道路輸送コストは日本の4倍以上になっているのです。

ご質問2:それにしても、関東大震災後や帝都大空襲後の更地に対し、仮に国や自治体行政の担当者が、住民たちに「好きにしろ」という投げ遣りな態度だったとしたら、今の環状線とかの道路すら作れなかったし、新幹線も最初から手も付けられなかったということにさえ、なっていませんでしょうか?

お答え2:「よくぞお聞きいただきました」と言いたくなるご質問です。

日本、とりわけ東京圏の復興があれほど急速に進んだのは、国や自治体が自分たちの開発計画を押しつけずに、民間に主導権を委ねていたからこそだったと思います。

戦後日本の急速な復興は
成り行き任せのたまもの

たとえば、東京全体が焼け野原だったころ、いち早く商機をつかんだのは、主要な鉄道駅前の焼け跡に露店を出した、いわゆる闇市の商人たちでした。

当然、土地所有者でも借地権者でもない人たちが大多数です。法律論を振りかざせば強制執行をして無償で立ち退かせることもできたはずです。

でも、当局は立ち退いたあとに建てるビルの1~2階と地下という、集客力の高い場所に優先入居させるという約束で穏便に、しかも商人たちがせっかく闇市でつかんだ商機を損なわないように再開発を進める方針をとったのです。

1980年代までに竣工した欧米のオフィスビルなどでは、地下や1~2階の貴重なスペースを全面的に店舗にしている、いわゆる下駄履きビルはめったに見かけませんでした。

ひょっとすると、これは第二次大戦直後に逼迫したオフィス床需要と店舗床需要をどう満たすかという切羽詰まった状態から考え出された日本建築の「独創」で、その後効率がいいので欧米のオフィスビル開発プロジェクトにも採用されたのかもしれません。

また、環状線も同じように、よく言えば地元民の意向を尊重し、悪く言えば事なかれ主義で臨んだため、地元民からの反対が強かったところはいまだに完成していないことが多く、ほんとうに環状線として全線開通しているのは、内堀通りと日比谷通りからなる全長わずか6.2キロの環状1号線だけと言っても過言ではありません。

それ以外の「環状線」は、渋谷区、新宿区、文京区といった地権者、借地権者にうるさ方の多い地域では、いまだに建設中とかまだ未着工(!)とかの区間が多いのです。

とくに環状2号線はGHQ総司令官マッカーサー元帥が、「自分の宿舎からGHQ本部までの通勤に必要なので一刻も早く開通させろ」と厳命を下した路線です。

ですが、虎ノ門・新橋間の用地の地上げに手間取り、虎ノ門ヒルズ開発プロジェクトとの抱き合わせでこの区間がやっと開通したのは、計画が策定されてから半世紀以上を経た2014年のことでした。

しかも、これでも全線が完成したわけではなく、築地・新橋間は本来は地下トンネルのはずなのに、今は地上の仮通路を使っています。

環状3号線は、曲がりなりにも右からも左からもぐるっと回れる環状道路ということになっていますが、文京区内はほとんど未着工です。

環状4~8号線は、環状線とは名ばかりで半円形だったり、扇形だったりして、山手線の西側だけを通っています。

戦後の東京圏はほぼ一貫して南西方向へと発展していったので、もしまだ1950年代、60年代ごろに無理やり環状線の名称に忠実に東半分も建設していたら、貴重な資源と労働力を大量に無駄遣いしていたでしょう。

何より大事なのは、環状線が実際には全通していなくても、東京の道路交通網はそれほど不便なく使われていて、東京で仕事をしている人の大半は、毎日朝夕のラッシュ時にクルマを運転して通うという神経の疲れる作業から解放されているという事実です。

関東大震災からの復興も
同様に成り行き任せだった

なお、関東大震災からの復興に関しては、後藤新平の帝都再開発計画が過大に評価されています。

ですが、実際にできたことと言えば当時も今も目抜き通りである銀座周辺にあった商業ビルを耐震性・耐火性の高いものに建て替えたことぐらいです。

後藤新平の壮大な計画のほとんどは「大風呂敷」と揶揄されるだけで実現しなかったのです。

後藤は、ちょうど関東大震災の起きた1923年に大阪市助役から市長に昇格し、大阪市中心部の道路網をほぼ完全に造りかえた関一(せき・はじめ)のことをうらやましがっていたそうです。

関一は、母校だった東京高商(のちの一橋大学)教授から大阪市助役に転出した人で、日本で最初に大学で都市計画を講義したと言われていますが、自分の理論を実践に移す場所を探していたのだと思います。

大阪は路地や抜け道が多く、大きな荷物は川や運河を利用した船便で送る典型的な近世都市でしたが、関の再開発によってほとんどの道路が縦横に整然と並んだ格子状の道路網に一変させられました。

大阪は、日本で唯一、成熟した既成市街地を都市計画によって大きく変貌させた町として名声を高めました。

ですが、私は関一の商都改造計画は、まさに大阪の商都としての地位を低下させる2大原因のひとつだったと思います。

ちなみにもうひとつは、大阪を地盤とする私鉄各社が省線電車(現JR西日本路線)や他社線との乗り換えの利便性を追求せずに、自社の乗客を囲いこむという方針にこだわったことです。

なぜ、一見整然とした格子状の道路網で経済効率が良くなったはずの大阪の商業基盤が揺らいだかは、関自身が草案を描いたという大阪市地下鉄路線網予想図にはっきり出ています。

大阪は堂島の米会所(米市場)があった中之島を中心に発展してきた都市です。そして、中之島は東西に長く、南北に狭い島です。市街地全体も明らかに東西に広く、南北に狭いかたちをしています。

ところが大阪の地下鉄路線は、南北に細長く東西に狭いニューヨーク・マンハッタンの地下鉄網をそっくりマネした構成になっていました

南北には大通り1本ずつの下に谷町線、御堂筋線、四つ橋筋線と3本も並行して走らせて、広い東西方向には中央線があるだけという、市街中心部のほとんどにアクセスが悪い地下鉄網になってしまったのです。

大阪市内の道路を全面的に造りかえることができたのだから、大阪の町全体も今までとは反対に南北に長く東西に狭いかたちに造り変えられると思っていたのかもしれません。

あるいは、もっと単純にニューヨークというすばらしいお手本さえマネしていれば、自動的に大阪もニューヨークと同じように活気のある町になると思っていたのでしょうか。

現在の大阪地下鉄網は、4線だけが実現していた1960年代に比べれば、だいぶ利便性が高まっています。ですが、3つの主要路線がほとんど同じ場所を走っていて、それ以外の地域の駅はまばらという基本的な欠陥は残っています。

新幹線も、全体計画を
曲げた町が栄えている

1964年の最初の東京オリンピック直前に開業した東海道新幹線は、上から押しつけられた全体計画をすなおに受け入れた都市の地盤が沈下し、当初計画の大幅修正を迫った都市が繁栄するという皮肉な結果を招きました

東海道新幹線の当初計画がどんなものだったかというと、既成市街地から外れた場所に線路を敷設するだけではなく、駅もすべて在来線とは違う駅にするというものでした。

このうち、既成市街地を外して線路を敷設するのは、計画の緊急性から見て地上げに時間を取れないので、納得できる方針です。

しかし、駅まで在来線と違う場所に造るというのは、鉄道網全体の利便性を考えれば、とんでもなく不自然な発想です。

駅のホームは地下化や2階建て化で、造り出すことができます。用地不足で思いついたことではないでしょう。

当時の国鉄(現JR東海)首脳陣は、「同じ駅に双方が乗り入れていると、在来線と新幹線の区別が付かない無知な大衆は混乱するだろう」と思ったのでしょうか。

それとも、「同じ都市の中に栄えている場所と寂れていたり、未開発だったりする土地があるのは不公平だから、他に何もないような場所に新しい駅を造って、この不公平を是正してやろう」とでも思ったのでしょうか。

いずれにしても、すいぶん庶民をバカにした上から目線の発想ですし、同じ町の中でも繁栄しているところ、そうでないところが分かれているには、それなりの理由があるものです。

さらに、どんなに成熟した市街地があっても最寄りの在来線駅と新幹線駅の連絡が悪いのは、町全体にとって死活問題です。

そこで、東京、名古屋、京都の財界人は猛反対運動をくり広げて、結局在来線拠点駅に新幹線ホームを造らせることに成功しました

一方、横浜、大阪、神戸の財界人は、当初計画どおりに不便な新横浜駅、新大阪駅、新神戸駅を受け入れてしまったのです。

1960年代後半以降のこれら6都市の発展ぶりを見ると、明らかに東京、名古屋、京都は順調で、横浜、大阪、神戸は停滞気味だったと思います。

クルマ社会と都市計画、自動車交通の危険性や非効率性については、近日刊行の拙著『クルマ社会 七つの大罪 増補改訂版――自動車が都市を滅ぼす』に詳しく書いておきましたので、ぜひお読みください。

読んで頂きありがとうございました🐱 ご意見、ご感想お待ちしてます。

コメント

福田 さんのコメント…
日本の輸送の効率性が高いのであれば、当然料金が安いことになると思います。

ですが一方で、ツイッターで何度か見たことがある意見として、

「日本は物価が安いままだから途上国並になっている。他の先進国では物価が上がり、電車代も上がっている。このインフレがあるべき姿だ。デフレの日本はダメだ」

というものがあります。私には効率や生産性が上がれば安くなるのは当然で、それは国民にとって利益だとしか思えません。

とはいえ、国民の給料が下がり続ける中でのデフレは健全ではないと思います。給料が安いので安いものしか買えないことになるからです。

もっと給料を増やしつつ、なおかつ効率性や生産性の向上に伴う当然のデフレを享受できれば良いのにと考えますが、虫の良い意見でしょうか?
増田悦佐 さんの投稿…
コメントありがとうございます。

いいえ、それは全然虫の良い意見ではありません。

むしろ、「労働生産性を上げれば経済成長率も上がる」とか、「インフレにすれば日本経済は良くなる」といった意見のほうが、金融資産をたくさん持っていたり、いくらでも借金をできたりする、政府や金融機関や大手企業にとって虫の良い意見なのです。

労働生産性を上げるいちばん確実な方法は、労働力を削減して投資を増やすことです。労働者1人当たり、労働1時間当たりの生産高は増えますから、たしかに「労働生産性」は上がります。でも、その成果は増やした資本への配当や債務への金利で持って行かれてしまって、勤労者には少なくなった労働時間分の賃金給与しか入ってきません。

また、インフレは貨幣価値が目減りすることを意味しますから、貯蓄以外には金融資産をほとんど持っていない勤労者にはマイナスです。一方、大きな債務をしょって事業を経営している企業や、莫大な国債という債務を負っている政府には借金元本の目減りという得になるわけです。

鉄鋼、自動車、総合化学などの重厚長大型製造業全盛期には、大企業が借金をしやすい環境であるインフレは経済成長を促進し、国民を豊かにするという議論にもそれなりの正当性がありました。

巨額投資で今までより安くいいものを大量に造れるようになると、国民全体が買えるものの量も増え、それだけ豊かになっていたからです。

ですが、製造業ほどには巨額の投資を必要としないサービス業が個人消費の大半を占める現代経済では、大手企業は軒並み増える利益を手元流動性として抱え込んでいるだけであって、その手元流動性は投資を拡大して経済成長を推進する役割を果たしていません。

ただ、アメリカや中国では政治経済を支配している人たちが、日本の同類よりずっとずる賢いので、明らかな過剰投資や重複投資に資金を回しながら、いかにも利益が上がっているようなふりをしつづけています。

いつか、これがいかに壮大な無駄遣いだったかわかったとき、米中両国の国民は奈落の底に突き落とされたような状態になるでしょう。

あまり頭の良くない日本の政財界の指導者たちは、正直に停滞をさらけだしているだけマシです。

ただ、この隘路を突破する道は、給与水準を上げて消費を活性化することです。そうすれば、サービスを中心に供給も拡大し、労働だけではなく資本の投入量も考慮に入れた全要素生産性は確実に上昇するでしょう。
福田 さんのコメント…
お返事ありがとうございます。

労働者を減らして労働生産性を上げても、その成果は増やした資本への配当や債務への金利で持って行かれてしまう、とのことですが、製造業は特にそうですね。また、IT分野も無人化が進めば生産性が上がったということになります。そうなると、やはり人を雇用してなんぼのサービス業が大事になってきます。

大手企業が利益を手元流動性として抱え込み、投資を拡大して経済成長を推進する役割を果たしていない、とのことですが、投資を拡大しても、かつての重厚長大製造業のように量をこなして儲かる展望が見えないから利益を抱え込んでいるということでしょうか?であれば、企業は無理に投資をして儲けを期待するよりは、労働者に利益をもっと分配し、労働者の消費を促すことによって市場が広がっていくことを目指すべきではないかと思います。

私が増田さんのアダムスミスの本で印象に残っているのは、企業間の競争が激しくなれば各企業の利益率はどんどん低下していくが、それでも企業は倒産することなく継続できるようになっていく、という部分です。これを私なりに解釈し学んたことは、競争によって消費者に対してより安くより良いものを届けるようになることで、おカネの価値が上がるということです。かつての千円よりも、今の千円の方が良い物を買えるようになる。ということは消費者だけでなく企業においても安いおカネで良いものを調達できるようになるから低い利益でも継続できるようになる。だからこそ今、利益を抱え込むのではなく、おカネの価値を高めるべく皆に分配するべきです。

私はおカネの価値が上がることは素晴らしいことだと考えるのですが、なぜか右派や保守派の人達はデフレを非難しインフレを望む人達が多い。とにかくおカネを発行して公共事業をガンガンやれという意見に同調する人達です。

そもそも物価とは何か。公共事業によって市場がどれほど歪むか。一人一人がおカネを稼いで自由に使うことによって生み出される市場がいかに大切かを保守派や右派の人にこそ知ってほしいです。彼らはマスコミや学校教育ではマイノリティであり、書店で本を買って読んだりインターネットに契約して情報を集めて学んできた人達だからです。
増田悦佐 さんの投稿…
こちらこそ、有難うございます。まったくおっしゃるとおりです。
昔はどんどん赤字財政で公共事業をやれというのは、左翼の議論だったのですが、レーガン革命以来、右翼の中でも政権べったり派の人たちがそういう主張をする、不思議な世の中になりましたね。